92年ぶりメダル獲得の“初老ジャパン”が巻き起こした愛称論争。平均年齢41.5歳の4人と愛馬が紡いだ物語
パリ五輪メダルの要因。4人が欧州を拠点にする理由
一方で、4人馬で手にした銅メダルは、戦前の偉業も再びクローズアップさせている。日本の馬術がオリンピックでメダルを獲得するのは、1932年ロサンゼルス五輪の障害飛越をイタリアで購入した愛馬ウラヌスとのコンビで制し、金メダルを獲得した西竹一さん以来、実に92年ぶり2度目だった。 金メダル獲得を契機に、特に海外において畏敬の念とともに「バロン(男爵)西」と呼ばれるようになった西さんは日本陸軍の戦車連隊長として、太平洋戦争中の1944年に硫黄島へ赴任するも翌年3月に無念の死を遂げる。胸ポケットにはウラヌスと一緒に収まる写真があったという。 2006年に公開された映画『硫黄島からの手紙』にも登場する、西さんの活躍が思い出されるのと同時に、素朴な疑問も頭をもたげてくる。馬術の本場ヨーロッパ勢を中心とする世界の壁に、1世紀近くもはね返され続けた日本の馬術が、なぜパリ五輪で銅メダルを獲得できたのか。 馬術部のキャプテンを務めた明治大学卒業後に一度は馬術から離れるも、テレビ観戦した2000年のシドニー五輪に刺激を受け、翌年に活動拠点を求めてイギリスに渡った大岩が言う。 「まずは東京五輪へ向けて、東京五輪の前から強化されてきた点があります。パリ五輪まで、かなり長い年月がかけられてきました。さらにその間、今回の4人がヨーロッパに滞在したままトレーニングを続けられました。普通はそれぞれが所属している会社の事情などもあって、早めにメンバーが交代するケースもありますけど、今回に限っては同じメンバーが10年近くもヨーロッパに滞在して、もっともいい環境でトレーニングを続けられた。これが一番の要因だと思っています」 馬術が身近にあるヨーロッパでは、レベルの高い国際大会も数多く開催される。日本を拠点にスポット参戦するのも可能だが、渡航するたびに愛馬の検疫が繰り返されれば、過度なストレスを与えかねない。愛馬を最優先で考えれば、全員がヨーロッパを拠点にするのがベストだった。 一時はドイツを拠点にした大岩を含めて、近年は4人ともイギリスを拠点にしてきた。それぞれが所属している厩舎からは馬の餌の管理や健康維持に努め、パリ五輪本番へ向けて馬のコンディションを仕上げながら選手たちもサポートする、グルームと呼ばれるスタッフも派遣されていた。