渋沢栄一いくつかの小話(1)「日本資本主義の父」哲学の拠り所は論語だった
「利」と「義」の調和、日本に植え付ける
昔、日本では仁義道徳と利益追求は相容れないものとされてきた。だから仁義を貴ぶ武士階級は最上位にランクされ、金儲けに走る商人階級は「士農工商」の最下位におとしめられていた。明治維新後も「利」と「義」は同居できない敵同士のように思われていた。「商人と屏風はまっすぐでは立たぬ」―― 古諺そのままに商人たちは軽視されてきた。商人の地位向上を信条とする渋沢は商業道徳の徹底を強く訴え続けた。 「利」と「義」は調和し、一つに合体できるし、そうしなければならないと、老骨に鞭を入れる渋沢。こうした信念のよりどころは、生涯の伴侶としてきた孔子の教え、「論語」にある。 「それ算盤をはじくは利である。論語を読むのは道徳である。余はこの論語と算盤との二つが相伴い、相一致しなければならぬと信ずる」 21世紀に入り、企業のコンプライアンス(法令順守)がやかましく言われるようになって、渋沢の“出番”が増えた。経済、経営をめぐる不祥事が勃発したようなとき、この一節はよく引用される。そういえば渋沢の生家を訪ねた時、玄関に大きな銭箱と算盤(=そろばんのこと)が置かれていたことを思い出す。渋沢家は農業の傍ら大手の藍玉商人であったから銭函と算盤は必須のものであった。さらに渋沢はこう述べている。 「よく道徳を守り、私利私欲の観念を超越して、国家社会に尽くす誠意をもって獲得せし利益は、これ真正無垢の利益というべし」 正々堂々と儲けた金で建てた日本橋・兜町の本宅は錦絵になるほど豪華な造りだった。作家の城山三郎は渋沢をモデルにした小説「雄気堂々」の中で書いている。 「海運橋ぎわの渋沢邸は、川に面した南欧風の白い洋館である。堂々とした造りで水に生えるその姿はいかにも文明開化の尖端を行く実業家の邸にふさわしかった。このころ栄一は郊外の飛鳥山(編注:現東京都北区)にも広大な敷地を持つ別荘を建て、時にそちらに出かけたりもしていた」