渋沢栄一いくつかの小話(1)「日本資本主義の父」哲学の拠り所は論語だった
賭け事好きな「明けの大黒」異名の由来
この本の中に渋沢のあだ名が出てくる。「明けの大黒」。その由来を城山は書いている。 「勝負事が好き。それもいつも粘り勝ちである。徹夜してみんながくたびれて、頭がもうろうとした夜明けごろになって力を発揮し、にこにこしながら、巻き上げる。『明けの大黒』と言われたゆえんである。若いころは一週間ぶっ続けで花札もやった。幕末、最初に洋行するときに着た中古の燕尾服は、賭け碁で手に入れたものだった」 明治時代、渋沢のような教養と品格のある大商人のことを「紳商(しんしょう)」と呼んだ。紳商たちの娯楽の第一は花札であった。渋沢は花札がめっぽう強かった。花札だけでない、勝負事は何でも強かった。中古とはいえ、燕尾服を「賭け碁」によって巻き上げるほどの博才の持ち主であった。=敬称略
■渋沢栄一(1840~1931)の横顔 天保11(1840)年、武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市大字血洗島=ちあらいじま)で生まれる。村でも有数の財産家だった。13歳のころ父に連れられて初めて上京する一方、単身で藍玉の買い付けに出かける。慶応2(1866)年、幕臣となり、翌3年にパリ万国博使節として渡欧、明治3(1870)年に官営富岡製糸場主任、同8(1875)年、第一国立銀行頭取。同11(1878)年に東京商法会議所(のちに東京商業会議所)会頭、同20(1887)年に帝国ホテル会長、同24(1891)年に東京交換所委員長を歴任した後、同34(1901)年、飛鳥山に転居、本邸とする。同35年に欧米視察、同42(1909)年に米実業団を組織して渡米。大正4(1915)年に渡米、同6年に理化学研究所を創立(のち副総裁)し、同9(1920)年には男爵から子爵へ。同12(1923)年の関東大震災で兜町の邸宅は消失。昭和6(1931)年11月11日没。天保以来、11の元号を生き抜いた。「青淵」の雅号は近くにきれいな淵があったことに由来する。