渋沢栄一いくつかの小話(1)「日本資本主義の父」哲学の拠り所は論語だった
「日本の資本主義の父」と称される渋沢栄一が、2024年から新しい1万円札の顔になります。江戸後期から明治、大正、昭和を生き抜いた実業家で、第一国立銀行をはじめ、日本初の私鉄である日本鉄道会社や王子製紙など約500の会社に関わった一方、約600の社会公共事業にも力を注ぎました。市場主義経済の象徴として現在の取引所の姿があるのは「渋沢のおかげ」と評価され、企業コンプライアンスが厳しくなった現代にあって、その哲学が再び注目されています。そんな渋沢の考え方や人柄が伝わるエピソードを、硬軟織り交ぜて集めました。市場経済研究所の鍋島高明さんが4回連載で紹介します。第1回のテーマは「論語」です。 【画像】渋沢栄一いくつかの小話(2)取引所は賭博? 明治政府内の大激論でもブレず
「商業立国」「商人の地位向上」を訴え
渋沢栄一が新しい1万円札の肖像画に決まって、ゆかりの地は歓迎ムード、生家や渋沢栄一記念館がある埼玉県深谷市はこの朗報に大喜び、「深谷はネギと煉瓦とチューリップだけじゃない」と、「明けの大黒」の異名を持つ渋沢栄一のPRに力が入る。 作家の林房雄は、近代日本における大物経済人の足跡をまとめた「明治大実業家列伝」の冒頭に渋沢栄一を据え、こう結んでいる。 「昭和6(1931)年、92歳の高齢で逝去するまで彼が創業し、指導した事業は一千以上と言われ、晩年には特に社会公共事業、労使問題の平和的解決に力を入れた。彼の生涯の標語は『官尊民卑の打破』であり、『実業家の地位の向上』であった。三つ子の魂、百まで! ――彼の青年時代の討幕の志し―― 圧政を排し自由を求める精神は環境と地位の目まぐるしいほどの変遷にもかかわらず、九十年の生涯を貫いて輝きとおしたのである」 渋沢は「商業立国」「商人の地位向上」を訴え続けた。日本を東洋における貿易の中心地にしなければならないと考えた。それには若い優れた人材を官界ではなく、実業界に送り込まなければならない。この点では福沢諭吉の主張と歩調を共にする。 渋沢が晩年、特に強調するのは「道徳経済合一説」である。渋沢栄一記念館に行くと、大正12(1923)年、既に渋沢は83歳の高齢に達していたが、発明協会で行った演説の肉声を聞くことができる。道徳とソロバン(経済)は相反するものではなく、調和、両立しなければならないと声震わせながら説く。