【証言・北方領土】水晶島と国後島・元島民 佐藤健夫さん(1)
終戦から71年経過しましたが、いまだに解決していないのが、北方領土の問題です。終戦直後の1945(昭和20)年8月28日から同9月5日にかけて、旧ソ連軍の侵攻により、北方4島が占領されました。北方領土で暮らしていた人たちは、その後、自力脱出したり、残された人たちは旧ソ連兵とその家族らとの混住生活を強いられた後、1947~48(昭和22~23)年にかけて、強制的に島を追われ、樺太経由で日本本土に送還させられています。 それから70年近くの日々が過ぎましたが、元島民はどんな歳月を過ごしてきたのでしょう。今も忘れられない故郷の生活や島への思いを語ってもらいました。 ---------- 佐藤健夫さん(79)=北海道中標津町=は1937年生まれ。歯舞群島・水晶島(すいしょうとう)と国後島で暮らし、終戦を迎えました。両島で過ごした幼少期の生活を聞きました。
水晶島生まれの8人兄弟
―水晶島在住時の家族構成は? 家族は、両親と、兄弟8人いるのです。私は6番目です。(そのころは)普通です。あの当時は、戦争時代ですから、8人、10人、10人以上の人も結構いましたね。 ―兄弟6人全員が島に住んでいましたか? 全員ですね。 ―一番上と一番下で何歳ぐらい離れていましたか? 3年おきなんですよ。ええ。全部。だから、24歳ぐらい、間隔は何ぼあんですか。8人だから18か。 ―佐藤家はいつから水晶島に? 父は教員だったんですよ。それで、国後島から転勤して、大正の末だね。大正10年ぐらいから島で。 ―兄弟は全員島生まれた? そうです。
祖父が国後島に入植
―初めに島に渡ったのはお祖父さん? そうですね。初めに、じいさん、祖父だね、祖父が入植して、結婚してたんですけど、じいさん、ばあさんは北陸だね、北陸のほうの福井とか石川県かい、そっちのほうから来てんですね。父親は岩手かな。札幌の大学を出て島に、国後に奉職したんですね。 ―お祖父さんの職業は? 初めは造材、木材をつくるっていう、そういう仕事をしていたんだけど、結局、土地が確保できたんで、そこにうちを建てて、昆布をとるようになったようだね。国後で、ですね。 ―お父さんは札幌で大学を出てから国後に? そうなんですね。そこで、国後の学校に勤めて、その隣が佐藤家だったんですよ。縁があって、母親ですね、婿に入ったわけ。父は「丸山」っていったんですけどね。 結構ね、そのじいさんという人は、いろいろ商売、仕事も一生懸命だったし、やり手だっちゅうかね、そういうことで、昆布をとった場合には、乾場、昆布を干す場所っていうのは大事なんですね。そういうのを何箇所も持ってたようで。私が島に、国後行くようになったのは、じいさんが亡くなったんで、昭和19年にね。それで、母親が一番上の子供だったんで、そのばあさんが1人残されたんで、世話をするために、8人の兄弟のうち2人、父親と水晶島に残って、あと6人が一緒に国後に移ったわけね。 ―残った2人は、上から2人? そうです。姉2人ですね。そして、その一番上の姉がやっぱり教員やってた。