【証言・北方領土】水晶島と国後島・元島民 佐藤健夫さん(1)
月に一度、根室に買出しに
―それはご両親で?子どもたちも? いや。行ったこともあります。その昔のね、根室の様子見てますけど、やっぱりにぎやかだったですよ、港も、旅館もいっぱいありましたね。人の往来、出稼ぎで、夏場の忙しいようなときには、道外からとかの出稼ぎが来てくれてね、そういうのをあったんで、人が、この行き来は多かったんですね。 ―定期船で行くと日帰りですか? いや、はっきりした時間…昔はおそいからね、結構時間かかったと思いますよ。だから、どうだったのかね、往復はできなかったんでないですかね。1泊して。ええ。いっぱい荷物しょって、子供、僕たち、地平線っていうかね、平らだからね、ずーっと向こうに母親とか、こう荷物いっぱいしょってくるのをね、走って迎えに行った記憶ありますね。 ―どういうものを買ってきましたか。野菜とか食べ物ですか? 食べ物も多いでしょうね、お菓子とか。お菓子類とか、あと、やっぱり米とか、そういう食料関係ね。 ―今でも、納沙布岬から水晶島見ることができますが、納沙布岬に行くことはありますか? ありますね。結構ね、年に二、三回ぐらいかね。だけど、やっぱり、昔を思い出す。70年も行ってないからね。やっぱり生まれた島で、行ってみたいっていう願望はすごく強いんですけどね、まだ、70年たっても、まだそれは果たせないんですよ。3回ぐらいには、島には行ってんですけどね、ほかの地に上陸するだけで。 僕は島、国後行って、脱出したんですけど、残った人いるんですね、ずっとね。脱出しないで。2年か3年たって、強制送還されたんですけど、残った人にね、「学校どうなったんですか」って聞いたら、燃料がないから、壊してね、炊いてしまったっていうことなんですよね。それはちょっとショックだったですね。 ―校舎は木造ですか? 木造ですね。木造だったんですけど、立派な建物だったんでね、それが全部燃やしてしまったっていう、それがね、すごくショックでね。これ今は島行ったら、日本人が住んでた住宅は全部もう燃やしたのか、国後などもないんですよ、私たちが住んでた、集落の跡はね。だから、70年たつと、昔の面影がないっていうのが寂しいんですね。全然ないです、わかんないですよ。 ただ、国後の場合は、古い人が行ってくれたから、一緒にね。案内してくれて、ここだったんだよっていうことで。隣が学校だったんでね、その学校の奉安殿ってあるんですよね、昔ね。教育勅語とか、天皇陛下の写真を飾ってる、そういう建物があって、土台がコンクリートでがっちりしてたからね、だから、それの跡は見つかったんですよ。だけど、その周りはね、もうジャングルでね、すごいですね、70年っていうのはやっぱり長いですね。