「ズボンに沼津を入れといてくれ」を一瞬で理解する75年愛…百合子妃が遺した三笠宮崇仁親王との夫婦漫才
■百合子妃を「賢妻」と呼ぶ夫婦関係 オーラルのなかでも、息のあった夫婦ぶりを示すエピソードが紹介されている。 それは、三笠宮が自分のいそがしさについて書いたエッセイにある話で、そこで三笠宮は、「正しいいそがしさ」と「不純ないそがしさ」を区別していた。 不純ないそがしさというのは、気持ちだけが焦っている状態をさすようなのだが、それであまりにムシャクシャしたので、三笠宮が「我と我が身をズタズタに切りさいなんで、三途の川に投げこんでみたい」と口走ったところ、傍らの百合子妃が「痛いわよ」と叫んだので、正気に帰ったというのである。 三笠宮はその際に、百合子妃を「賢妻」と呼んでいる。そうでなければ夫婦生活は長くは続かないのだろう。オーラルが行われているあいだに百合子妃は98歳を迎えている。とてもその年の人の受け答えには感じられない。よほど明晰な頭脳をそなえた「賢人」に違いない。 ■太平洋戦争がはじまる直前の成婚 ただ、オーラルではそんな楽しい話題ばかりが出てくるわけではない。 そもそも結婚からして大変である。百合子妃は、子爵であった高木正得(まさなり)の次女で、華族の出身ではあるが、彼女を三笠宮の相手に選んだのは、三笠宮の母である貞明(ていめい)皇后だった。結婚したのは18歳のときである。貞明皇后からの指名は唐突なもので、何度も「とても、務まりません」と断ったが、皇后は「それは、分かっている」と許してくれなかった。 なぜ貞明皇后が百合子妃に白羽の矢を立てたのか、その理由を聞いていないというのだが、その後のことを考えると、皇后の目にくるいはなかったことになる。 三笠宮との結婚が1941年10月22日だから、太平洋戦争がはじまる直前である。新婚生活は戦時下だった。しかも、当時の三笠宮は軍人であった。 オーラルでは、終戦の前日である1945年8月14日に、同期の若手陸軍将校が三笠宮のところを訪れてきて、激論になった話が語られている。三笠宮は戦争はもう終わらせたほうがいいと考えていたが、同期の将校は続けるべきだと考えていた。そこで激論になったのだが、百合子妃によれば、それは「今にもピストルが飛び交うかと思うような緊迫した」場面であったという。