【プロ1年目物語】日米通算2450安打の福留孝介、失策王と三振王からスタートしたプロ生活
打撃は前評判通りの活躍。同時に不安視されていた守備もその予想が的中してしまう。エラーに加え、記録に残らないミスも多く、「1年間ショートで使う」と宣言した星野監督も、夏場からは三塁での起用も増えていく。9月4日の広島戦では、初めて左翼を守り、9回裏に西山秀二の平凡なフライを痛恨のサヨナラ落球。初めて二塁に入った巨人戦でもイージーなゴロを後逸。チームは9月15日の2位巨人との直接対決を落とし1.5差にまで詰め寄られるが、星野監督はそのポジションに頭を悩ませながらも、「守り? 下手なのは承知の上。でも、今のウチの打線であいつ以上に打てるやつがおるのか」と守備には目を瞑り起用し続けた。
日本シリーズでも守備でミス連発
そして、9月30日の神宮球場で中日は歓喜の11年ぶりのVを決めるのだ。祝勝会では、星野監督に物怖じせずにビールをかける22歳の福留の姿があった。132試合、打率.284、16本塁打、52打点、OPS.810と主力打者の働き。一方で粗さも目立ち、新人記録を塗り替えるリーグ最多の121三振を喫し、守る方ではリーグワーストの19失策。ショートだけで13失策を喫し、事実上の遊撃失格の烙印を押されてしまう。プロ1年目を終え打撃ではそれなりの手応えはあったが、内野守備は一向に上達する気配すらなかった。例えば、PL学園の先輩・松井稼頭央(西武)が同チームの名手・奈良原浩を参考にしたように、福留にも先輩遊撃手の久慈という格好のお手本がいたが、レベルが違い過ぎて真似をすることすらできなかったという。 「模倣を考えたが、うまくはいかなかった。目の前にマネをする対象がいた。久慈さんである。簡単そうに打球をさばく。そのマネをしようとしても、僕にはできなかった。「簡単そう」。そう見えている、そう発想する時点で模倣できるはずがないのだ。結局、僕の中で“正解”は出ずじまいだった。もしあのころの僕に戻って、星野監督に「おまえの好きなところを守らせてやる」と言われたら……。素直に「外野でお願いします」と答えるだろう」(もっと、もっとうまくなりたい はじまりはアイスクリーム/福留孝介/ベースボール・マガジン社) その秋、王貞治監督率いるダイエーとの日本シリーズでも、福留は守備でミスを連発してしまう。「自分自身が情けないです」と消え入りそうな声でつぶやいた背番号1は、打撃でも精彩を欠き、18打数2安打の打率.111とスランプ状態に陥る。ダイエーが初の日本一に輝いた様子を報じる、1999年10月29日付日刊スポーツの「マッシー村上の採点簿」で、福留は第5戦で両チーム最低の10点満点中「3.0」をつけられ、「3回、満塁では併殺を狙える打球の失策で先制点を献上し、5回には二遊間のゴロをさばけない。記録にならない失策と打撃でのボール打ちで、みすみす流れを逃した」と酷評されている。 守備の不安はその後も解消されず、福留は3年目の2001年シーズン後半に外野へ本格的にコンバートされる。星野の後任監督に内部昇格することが決まっていた山田久志の意向もあったが、結果的にこれが運命の別れ道となった。山田監督が就任した2002年、4年目の福留は松井秀喜(巨人)の三冠王を阻止すべく打率.343で自身初の首位打者を獲得。外野手として、ゴールデングラブ賞にも選出された。そのあとの男の人生は、あえてここで語るまでもないだろう――。 プロ1年目、日本シリーズの表彰式の最中、一塁側ベンチの背番号1は帽子を目深に被り、泣いていた。今思えば、この屈辱の涙が、日米通算2450安打への長い旅の始まりだったのである。 文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール