【プロ1年目物語】日米通算2450安打の福留孝介、失策王と三振王からスタートしたプロ生活
社会人でオリンピックや国際大会を経験していく中で、世界の舞台を意識し、のちのWBCでの活躍やメジャー移籍へと繋がっていくことになるが、それはもう少しあとの話である。98年11月2日、大阪・吹田市の日本生命寮で会見を開き、21歳の福留は中日を逆指名する。3年越しの大願成就だった。1億円の契約金を手にしても、大阪を出る前にスーツは量販店のアオキで購入し、これまで着ていたものは下取りしてくれる日に持っていく。普通の若者の金銭感覚も社会人生活で自然と身についた。 11月29日のドラゴンズファン感謝デーで、スモークの中からスポットライトに照らされた「背番号1」の福留がドアラと手をつなぎセンター後方からサプライズの登場。異例の新人お披露目となった。当然、社会人公式戦93試合で打率.383、33本塁打の打撃面では即戦力を期待されたが、一方で守備面は不安視されていた。福留本人はショートへの強いこだわりがあったが、担当の中田宗男スカウトは星野監督にこう助言したことを自著で明かしている。 「監督、なんやかんやいうて、福留は社会人では1回もショートを守ってないですからね。サードで使ったほうがいいんじゃないですか?」 星野さんは、こう言って聞く耳を持とうとしなかった。 「アカン! 3年前から『ショートで使う!』と約束しとるんや。お前は要らん心配するな!」(星野と落合のドラフト戦略 元中日スカウト部長の回顧録/中田宗男/カンゼン)
守備には目を瞑り起用
1999年春、オープン戦は27打席ノーヒットとプロの攻めに苦しむも、福留本人は週べの直撃に「オープン戦がこのままノーヒットで、開幕戦に打ったら、カッコいいスね」なんて強気な姿勢を崩さない。4月2日広島戦、ナゴヤドームで「二番遊撃」の開幕スタメンに抜擢されるも、2試合7打席に立ちノーヒット。3戦目にようやく二塁打で初安打を記録する。初アーチは11試合目の巨人戦でガルベスから放った。チームもプロ野球タイ記録の開幕11連勝を記録。この年の中日は好調で、新人の福留をスタメンで使い続ける余裕があった。 4月28日の阪神戦であと単打を1本打てばサイクル安打という場面で、ショート福留に守備固めのベテラン久慈照嘉が送られる屈辱の体験もした。「オレに最後まで守らせてもえるような選手になれ」という星野なりの叱咤激励である。打撃では開幕7試合目まで打率.158に低迷も、5月30日には打率.281、6月25日の横浜戦で3安打の固め打ちで打率.301と徐々に調子を上げ、オールスターにも監督推薦で選出。8月4日の阪神戦では第12号の初球先頭打者ホームランを放ち、8月10日の阪神戦は初の三番に抜擢される。プロ入り後に6キロも体重が減ったが、同期入団の岩瀬仁紀と二人で焼き肉を食べに出かけ、束の間の開放感と好奇心から、普段利用しない名古屋の市バスに乗って寮まで帰ったこともあった。