【プロ1年目物語】日米通算2450安打の福留孝介、失策王と三振王からスタートしたプロ生活
3年越しの大願成就で中日へ
迎えた11月22日、午前10時50分。福留は高校生としては史上最多の7球団から指名を受け、紅白の勝負フンドシでクジ引きに臨んだという近鉄の佐々木恭介監督が「ヨッシャー!」と当たりクジを掲げてみせた。それを校長室のテレビで見届けた福留は、竣工したばかりの体育館の記者会見場へ移動する。「高い評価は有難いと思っています。でも、一度決めた自分の意志は貫きたい」と涙を流すこともなく冷静に報道陣に対応してみせる18歳。担当の河西俊雄スカウトは、マスコミの要望で佐々木監督との写真撮影にも応じながら、入団交渉の中で大人たちの説得にも動じない福留の意志の強さに驚いたという。 イチローや清原がマスコミを通じて、「パ・リーグを一緒に盛り上げよう」、「社会人野球の3年間はもったいない」とコメントを出しても、当初の予定通り日本生命行きを決断。これと決めたらとことん貫き通す筋金入りの頑固者。社会人野球に進んですぐ、全日本の米国遠征でツインズとのオープン戦で特大アーチを放ち、ドジャースが日本のコミッショナー事務局に身分照会したことも話題になった。史上最年少の19歳で96年アトランタ五輪の日本代表入り。一塁・松中信彦、二塁・今岡誠、遊撃・井口忠仁らスター揃いの内野陣で三塁を守り、銀メダル獲得に貢献する。なお、現地での練習をドジャースのスカウトが視察。野茂英雄がロサンゼルスでトルネード旋風を巻き起こした直後、福留は日本人野手初のメジャーリーガーになっていた可能性もあったのだ。 96年の都市対抗では初打席で本塁打を放ち、新人賞の若獅子賞に選ばれ、2年目には三番を打ち早くも都市対抗を制覇。インタコンチネンタル杯では宿敵キューバの連勝記録を151で止め、世界一を勝ち取った。迎えたプロ解禁の社会人3年目、年明けには中日の星野仙一監督が早々にドラフトでの福留1位指名を公言するが、週刊ベースボール1998年1月19日号では福留が自身の進路について、こう語っている。 「高校のときは見えなかった部分が、社会人を体験して見えてきたところもあります。選択肢は広がったと思います。今、みんなが海の向こうのことを言っていますが、それも選択肢の中に入ってくるでしょう。ただ、日本でやることを一番には考えていますが」(週刊ベースボール1998年1月19日号)