「だいたいがいい」という人生のレシピ 阿川佐和子『レシピの役には立ちません』(レビュー)
本書は、阿川佐和子さんの「波」の連載からの三冊目だ。 阿川さんの食エッセイの魅力は、親しみやすさにある。「ナマコの醤油煮込み」など私自身が食べたことがないものもあるが、ほとんどはシチュー、中華炒めなど出来上がりが目に浮かぶ料理だ。 それでいて、その描写はとても美味しそうで、読者は特別な料理を食べたような満腹感を味わえる。 私見だが、男性作家が満漢全席やフランス料理など非日常の料理の味を伝えるのが上手いのに対して、女性作家はいつもの、ありふれた、そばにある食べ物を魅力的に描く能力に長けているのではないか。それは、台所が居場所であるかどうかの違いかもしれない。 阿川さんは幼い頃、いつも父(作家の阿川弘之氏)からの叱責を恐れていた。そんな父が糠味噌を触る娘を見て、料理の素養があると褒めてくれた。 「こうして台所は私にとって遊園地であると同時に、父の癇癪から逃れることのできるシェルターとなった」 そうやって台所と親しんできた経験が、それこそ糠味噌のように熟成して、「いつもの料理」の味を伝える力を引き出したのではないかと、勝手に推測する。 阿川さんは食に対して決してきどらない。えらぶらない。 だいたい、これぐらい冷蔵庫の残り物の利用法に情熱を注ぐ食エッセイを他に知らない。平野レミさんから教わったという、余った瓶詰めを調味料として炒飯に入れるやり方は、連載で読んで以来、私も真似ている。 残り物への情熱が発展すると、「アガワ仕事」もはじまる。京都料理で、小川へ散歩に行くぐらいの手軽さでできる料理を「小川仕事」と称するのに倣い、残り物のカラスミやリンゴを使って、新たな料理を生み出す。手間はかからないが、時間はかかる。これに関しては、残り物になる前に普通に食べる方が美味しいような気がするが。 「料理はだいたいで、だいたいおいしくなるものだ」。これも阿川さんの教えだ。 高校時代、友人から「阿川さんのレシピ、『だいたい』って言葉が多すぎて、よくわかんない」と云われたと書いたあと、こう述べる。 「しかし料理はアバウトがいい。もちろんときに失敗することもあるけれど、身近にある残り物で、新たな一品ができたときの感動は、指定されたレシピ通りに仕上がったときよりはるかに大きい。と、私は信じている」 バツイチ独身で、ろくな調理器具も広い台所も持たない貧乏ライターの私は、この一文に励まされ、本書に出てくる料理にチャレンジしてみた。 「納豆調味料奮闘記」に出てくる、「鯉の納豆焼き浸し」。ノンフィクション作家の高野秀行さんからこの料理を聞いた阿川さんは、鯉を太刀魚に代えてつくってみる。これがまた、実に旨そうなのだ。 私も早速、スーパーに走るが、太刀魚が見当たらない。しかたなく買い置きの目鯛を使うことに。鯉→太刀魚→目鯛と、すでに間違った伝言ゲームになっている気もするが、「だいたい」と決めたので平気だ。 その後も、ナンプラーがないので醤油のみ、「納豆の叩き」がよく判らないので適当に……とやってるうちに、なんとかそれらしいものが出来上がった。でも、これ、阿川さんの書いている料理と別物なのでは? しかし食べてみると、まさに「納豆とトマトの酸味が見事に混ざり合い、ねっとりまったり酸っぱくて甘い」美味しさを味わえた。結果オーライなのだ。 もちろん、阿川さんの「だいたい」主義は、たんにズボラなだけではない。「加工癖」と自称する通り、レシピから脱線するのを楽しむ。「炒り玉子、胡瓜、紅生姜の混ぜご飯」(これまた美味しそうだ! )を創作した小学生の頃から、その好奇心は変わっていないはずだ。 今年の正月に発生した能登地震では、仲間たちと珠洲に出向き、避難所の人たちと餃子をつくりながらお喋りをする。何気ない会話から、被害の深刻さが伝わる。 それでも、餃子という身近な料理をともに食べるということが、非常時の緊張を少しゆるめてくれるようだ。 「たぶん私にとって『おいしい』は、料理そのものの味や素材の力もさることながら、その品を口に運び、歯で噛みしめ、舌で受け止め、喉を通過させ、ほぼ空っぽの胃袋に運ばれるまでに発生する興奮の総合的印象なのではないか。そのとき一緒に食している相手や仲間と顔を見合わせて、『おいしいねえ』と頷き合う効果もそこには含まれる。もちろん一人で、自分の作った料理を自画自賛して『わしゃ天才か!』と叫ぶこともないわけではないけれど、できれば味を共感できる存在のいてくれることが望ましい」 たしかに、阿川さんの食エッセイには、料理の向こうに、同居人や秘書アヤヤほかの魅力的な人たちの姿が見える。 そうなると、私にも、日常的にともに食卓を囲んでくれる人が必要になるが、こればっかりは「だいたい」では実現しそうにない。 [レビュアー]南陀楼綾繁(ライター/編集者) 1967(昭和42)年島根県生れ。ライター・編集者。古本、書店、図書館、ミニコミなど本に関することなら何でも追いかける。2005(平成17)年から谷中・根津・千駄木で「一箱古本市」を開催する不忍ブックストリートの代表として、各地のブックイベントにも関わる。「一箱本送り隊」呼びかけ人。著書に『路上派遊書日記』『一箱古本市の歩きかた』『谷根千ちいさなお店散歩』などがある。 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
新潮社