「低価格」「高品質」「健康志向」3つのPB商品で大躍進!“ライフ”の戦略!
三菱商事出身の社長が改革~トップダウンから現場主義に
ライフを日本有数の食品スーパーに築き上げた創業者の清水信次。その第一歩は、戦後間もない大阪の闇市で始めた食料品の卸売業だった。 1961年、大阪・豊中市にライフ1号店を出店し、食品スーパー業に進出。その後、首都圏にも出店し、同業のそうそうたるカリスマ創業者たちと切磋琢磨しながら、日本のスーパーの礎を築いた。 「(創業者の清水は)豪快だけど面白くて繊細なところもある。お茶目ですし勉強もすごくしていました。本を読んでいるし、人に会って話を聞いている。ゆえに先見性がある」(岩崎) 一方、スポーツ少年として育った岩崎は、中学からバスケットボールに熱中し、慶応義塾大学では体育会の中心選手として活躍した。 卒業後は三菱商事へ入社。配属されたのは食品部門だった。当時、輸入自由化が始まる直前だったオレンジ果汁を海外から買い付ける業務を担当。入社5年目にはイギリスの食品メーカーへ出向を命じられ、海外勤務を経験する。 そんな中、ライフの名物社長だった清水が現地の小売業を視察にやってきた。これが大きな転機となる。食品業界に精通していた岩崎が案内役を任されたのだ。 「ワンマン社長ですごく怖い人だよと聞いていたので、さぞかしそういう人だろうと思ったのですが、無理難題を言わないし、すごく気を使われる方だと思いました」(岩崎) 案内したのは3日間だけだったが、岩崎を気に入った清水。本人の知らぬところで引き抜き交渉が行われた。清水の熱意に三菱商事は折れ、1999年、岩崎はライフへ出向することになった。 「最初に三菱商事に入って原料の仕事、『川上の仕事』をやったんです。次に『プリンセス社』(イギリス)に行って食品メーカーであり小売業に物を卸す『川中の仕事』をした。今度は小売業で『川下の仕事』をしたら、一気通貫で物事がわかるようになるから、自分にとっても面白そうだと」(岩崎) 岩崎は首都圏の店舗を統括するストア本部長に就任した。 ある日、新店オープン前の視察で思わぬ出来事に遭遇する。傘立ての位置が気になっているという従業員に対して、岩崎が「移動したらいい」と指摘すると、「傘立ての場所すら現場で決められない」というのだ。 当時、ライフは社を挙げて出店攻勢をかけていた。効率を重視するあまり、現場には権限が与えられず、本部が作ったマニュアル通りの店づくりしか許されていなかった。 「悪い言い方をすると、金太郎飴みたいなお店。だけど、本部の人たちがそのお店に毎日いるかというと、いないわけです。現場は現場が決めればいいことなんです」(岩崎) そこで岩崎は現場主導の店づくりに変えていく。 例えば東京・豊島区の池袋三丁目店では、単身者が多いことから入口近くに総菜コーナーを配置。野菜コーナーには小分けにした商品を増やした。こうした商品の配置や品揃えは、店長の考えによるものだ。 「言われたことをやるのではなく、自分がやりたいこと、思っていることをしっかり具現化できるのは、店長としてもやりがいを感じる瞬間だと思います」(店長・林良美) 2006年、岩崎は39歳で清水からライフの社長を引き継ぐ。 転機は2017年。特に問題が発生したわけでもないのに利益が減ってしまった。その原因を究明する中であることに気づく。 「スーパーマーケットの仕事は、ある意味で物まね競争みたいなところもあって、隣の店がやっているからといって同じものを売ったり、同じ売り方したり。ただ、それだと生き残れない。ライフらしさを追求していかないとダメだと」(岩崎)