「乗り通す人いるの?」200キロ超の長距離“普通列車”が今なお消えない理由 昔は“とんでもなく長い”列車も
終点まで乗り通すと「18時間29分」
かつて存在した日本最長距離の普通列車、「門司5:22発-山陰本線経由-福知山23:51着」の824レは、DD51ディーゼル機関車牽引の客車列車でした。約595kmを走破するこの列車へ、筆者は1980年代に2度乗車しています。 未明の門司からは高校生らが乗り込み、山口県の長門市辺りでガラ空きになり、鳥取県の倉吉辺りで下校の高校生を運び――といった具合でした。このような需要の繋ぎ合わせの列車でしたが、郵便輸送も行っていました。筆者は車掌に頼み郵便車から列車番号入り消印が押されたハガキを発送した記憶があります。 実はこの郵便輸送の方が、旅客輸送よりも大きな使命でした。郵便や荷物は乗り換えてくれませんので、長距離を通しで運行する必要があったのです。 このような長距離運行はマニア的には面白いのですが、乗り通す人はほぼおらず、運行が乱れれば影響は広範囲に拡がります。また、送った車両が返って来なければ、ダイヤ修復にも数日かかる場合も。安定運行にはデメリットがありました。
長距離普通列車を一旦“終わらせた”もの
古き良き時代の終焉は国鉄改革と共にやってきました。鉄道による郵便輸送や荷物輸送がトラックなどに切り替えられ、長距離列車の運行理由が消えました。 さらに、機関車列車から気動車や電車へと「動力分散化」が進み、折り返しが容易になると、回送同然の列車を走らせる必要もなくなりました。動力が分散されると、1両あたりの単価が変わらないので、短編成化と増発が進み、運用が単純化されていきます。そうすると乗り継ぎも大きな単位ではなくなるので、列車系統の分割も進められました。 また、地方では鉄道移動が主流ではなくなり、昼間の輸送需要も減りました。鉄道による長距離輸送は、自動車に対して競争力があり速達性が活かされる新幹線や特急が担うようになります。このような複数の要因が重なり、長距離普通列車は姿を消していきました。
昔と役目は全く違う! 現代の長距離普通列車
消え去るかと思った長距離普通列車ですが、大都市圏で拡大してきます。その先駆けは、JR西日本の新快速です。 1989年、京都・大阪・神戸の大都会と近隣の中核都市を高速で結ぶことで、都市間移動需要を拡大させる「アーバンネットワーク」戦略が打ち出され、直通運転の拡大や、新快速への新型車両投入、スピードアップが進められました。 これは大成功し、長距離通勤客も増え、郊外都市の開発も進みます。2006年には滋賀県と福井県が整備費用を負担した新快速の敦賀直通も始まり、滋賀県の人口を増やす要因ともなりました。 首都圏では超高密度の運行を安定させるため、系統路線の分離が定着していましたが、1996年の中央線を皮切りに「東京圏輸送管理システム (ATOS)」が導入され、東京から100km圏内の24線区・連動駅約205駅に広がり、各系統路線ごとだった運行管理が一元化されていきます。 こうして複数系統間を直通する列車の運行管理がしやすくなり、2001年に東北本線・高崎線と東海道本線・横須賀線を直通する「湘南新宿ライン」、2015年には東北本線・高崎線・常磐線と東海道本線を直通する「上野東京ライン」の運行が始まりました。 この目的の一つは、雁行する輸送需要の取り込みと思われます。東京駅や新宿駅などの「点」だけでなく、首都圏内には旺盛な移動需要が面的に広がっています。東京や上野で折り返して分断させずに列車を直通させると、この首都圏内の多様な移動、郊外から首都圏各地への移動など、様々な移動需要を重ね合わせ拡大を促進することができます。 不動産開発も見逃せません。郊外から都心へ広く直通できることから、上野東京ラインでは沿線価値の向上が謳われました。また、東北本線・高崎線・東海道本線の車両を共通運用することで効率化し、品川など都心にある車両基地の郊外移転と再開発を可能としました。 こうして大都市を貫通する長距離普通列車が進化していきましたが、近年はコロナにより、中央線快速の深夜が運休となり、旺盛だった夜間利用が減りました。また、新快速は野洲以東が日中1時間1本に減便されました。労働人口の減少が進み、さらに長距離普通列車の運行に影が落ちるかもしれません。 一方で、富士山回遊を狙い2024年には中央線で東京発大月行きの快速が増発されています。時代や環境の変化・技術の進化により、長距離普通列車は形を変えて生き続けています。
山田和昭(日本鉄道マーケティング代表、元若桜鉄道社長)