一橋大学→脱サラし“女装”の道へ…高学歴ドラァグクイーン(52)が語る、会社員からフリーへの転身と父へのカミングアウト
――2002年にはヘブンアーティスト(東京都が実施する審査会に合格した大道芸人)のライセンスも取得されてますね。 エスムラルダ 古新聞を整理していて、たまたま「東京都が大道芸人を募集」っていう記事を見つけたの。そこで応募してみたところ、審査に受かり、2002年の10月に第1期生ヘブンアーティストに認定されて。 実は以前、ブルボンヌさんたちと『アタック・ナンバーハーフ』(ニューハーフのバレーボール選手たちが国体を目指す、実話を基にしたタイのコメディ映画)のプロモーションイベントで、渋谷のパルコ前に特設ステージを組んでショーをやったことがあるんだけど、それがすごく楽しくて「もう一度野外でショーをやりたい」ってずっと思ってたのね。 ――当時の都知事は石原慎太郎氏。披露したのはどんなパフォーマンスだったんですか? エスムラルダ 『天城越え』でホラーっぽいショーをしたり、ホイットニー・ヒューストンの曲でいい加減な手品を交えたショーをしたり、坂本冬美さんの曲でダンサーの子たちと踊ったり。 ――ドラァグクイーンショーの定番、リップシンク(口パク)をひねった感じですね。それも会社員を続けながら? エスムラルダ 会社は、ヘブンアーティストになって約1年後に辞めました。会社の仕事と、ライターの仕事と、週末のイベントの仕事、3つの仕事を並行するのがしんどくなって。ゲイ関係のイベントが地方でも活発になり始めたので、週末の遠出も多かったし。 ――会社員からフリーランスに、スムーズに生活が切り替わったんですね。 エスムラルダ 辞めるまでは結構悩んだけどね。13人の占い師にみてもらったりして。退職後はフリーのライターとドラァグクイーンの二足のわらじになりました。
初めて書いた青春コメディがテレビ局のコンクールで受賞
――ライター業もすぐに食べていけるくらい仕事量があったんですか? エスムラルダ そこは結構順調でした。退職した会社から外部スタッフとして手伝ってほしいと頼まれたり、会社で知り合ったデザイン事務所から出版社を紹介してもらったり、いろんなご縁がつながって。 2003年からは、以前から書きたかったシナリオのためのスクールにも通い始めました。でも、友だちから依頼された漫画原作の仕事も始めて、忙しくてなかなか映像作品を書くことに集中できなくて。10年近くたったとき、「さすがに1本くらい書かなくちゃ」と一念発起し、60分の作品をエイヤ! と仕上げて、テレビ局のシナリオコンクールに送ったの。そうしたらどんどん審査を通過して、賞を取ってしまって! 狐につままれたような気分で「え? 本当にいいの?」とかえって焦りました。 ――どんなストーリーのシナリオだったんですか? エスムラルダ 高校野球の“応援をしたくない”ブラスバンド部の話です。 ――青春コメディ! 面白そうです。 エスムラルダ それとは別に、大学時代の友だちから「賞を取ったんだったら、脚本書いてみる?」って、ドラマのお仕事をいただきました。それが初めての脚本仕事。手探り状態でしたね。