「家電で楽をするのは贅沢」 松下幸之助が“需要の少ない農村部”に販路を広げた理由
人生100年時代を生きるビジネスパーソンは、ロールモデルのない働き方や生き方を求められ、様々な悩みや不安を抱えている。本記事では、激動の時代を生き抜くヒントとして、松下幸之助の言葉から、その思考に迫る。グローバル企業パナソニックを一代で築き上げた敏腕経営者の生き方、考え方とは? 【写真】整列する社員に声を掛ける、1968年の松下幸之助(当時73歳) 【松下幸之助(まつしたこうのすけ)】 1894年生まれ。9歳で商売の世界に入り、苦労を重ね、パナソニック(旧松下電器産業)グループを創業する。1946年、PHP研究所を創設。89年、94歳で没。 ※本稿は、『THE21』2024年2月号に掲載された「松下幸之助の順境よし、逆境さらによし~与えられた環境に没入し、精進努力する。大きな安心感がわき、力強い働きが生まれる。」を一部編集したものです。
「需要がないなら自分でつくればよい」常識外れの挑戦が主力事業の一つに
1950年代半ばのことである。松下電器(現パナソニック)で新設の通信機課の課長を命じられた木野親之氏(のちの松下電送社長)は途方に暮れていた。担当の電気通信事業はほぼ官需に限られ、指定会社は、すでに電電公社(現NTT)をはじめ大手企業で占められている。新規参入の余地がない。 木野氏は、当時社長の松下幸之助に助言を求めることにした。すると幸之助は、「民需でいけ」と指示を出す。しかし、そもそも民需がないので、木野氏にとっては助言にもならない。しまいには、「ないなら自分でつくればよい」と言われる始末。 困っている木野氏に、幸之助はこう続けた。「日本は戦争に負けたけれど、かえってどんな仕事もできる社会になった。ゼロから新しい日本が立ち上がるんや。きみが松下の電気通信の歴史をつくってくれ」。 社長からここまで言われては覚悟を決めるしかない。とはいえ、無線事業には政府の免許が必要だ。何でもよいというわけではなく、電波法によると、公共性が求められている。「民間で役に立ちつつ公共性の高い無線の使い方とは何だ?」と木野氏は考え続けた。 その結果、タクシーに無線機を積んだら便利ではないかと思いつく。まだ自家用車がそれほど普及していない時代、国民のタクシーに対する需要は大きい。公共性の要件を満たすはずだ。タクシーにとっても、無線を活用することで配車の効率性が飛躍的に高まる。 実のところ、タクシーの無線機はすでにごく一部の地域で導入されていたのだが、コストや品質面で課題が大きく、市場が形成されるほど普及していなかった。木野氏は当時の郵政省に何度も足を運び、ようやくタクシー無線事業の許可が下りる。早速木野氏は全国のタクシー会社に営業にまわったところ、次々と無線機の導入が決まったという(以上、『松下幸之助に学ぶ 指導者の一念』[コスモ教育出版]を参考にした)。 1958年、松下電器の通信機事業部は、松下通信工業として独立会社化する。タクシー無線は同社の主力事業の一つに発展した。確固たる民間市場が形成されたのだ。木野氏は、「無線は官需」という"常識"にとらわれていたのである。