安易な国粋主義を戒めた「日本主義」哲学者の気概 九鬼周造の生き方に見る「媚態」と「やせ我慢」
しかも、これはまだ九鬼研究では触れられていない点ですが、実は九鬼は当初、この講演を断ろうとしていました。甲南大学の九鬼周造文庫に保管されている未公開の書簡のなかに、九鬼が文部省思想局の役人に宛てた手紙の下書きが残っています。そこに「御趣旨に十分に添い得るや否や多少疑問に存ぜられ候 これらの点よりしても出来得ることならば御辞退いたしたく候」とあります。 ちなみに、私は一時期、これらの未公開書簡を整理する仕事を依頼されていたので、これを発見できたのですが、その後、何やらよくわからない学内のトラブルに巻き込まれて外されてしまったので(笑)、今は見ることができません。研究の発展のために、甲南大学には1日も早く書簡集の整理・公刊をお願いしたいです。
そういうわけで、この講演はそのあたりの事情も考慮しながら、慎重に読まなければなりません。しかし、とはいえ、ふつうに読んでも、この講演はいっけん国粋主義的な言説を振りまいているように見せかけつつも、実はその本旨は、むしろ安易な「日本主義」や「国粋主義」を戒めるところにあることは明らかです。 古川:たとえば、講演の結論部分では、はっきりとこう述べています。 我々は今や東洋的な日本文化が西洋の文化と全面的に接触しているという時機に立たされたのである。その時に当って一部のものは西洋の文化を頭から崇拝してその影響に全く身を委ねてしまっている。日本的性格は失われようとしている。また他のものは日本文化を何等か絶対的なものと考えてその絶対的なものを単に固守するより以外のことを知らない。我々はそのいずれにも倣ってはならぬ。一方にあって我々は飽くまでも日本文化の特殊性を自覚して日本主義の立場に立つべきであると共に、他方にあっては広く世界の文化を見渡してその善きものを容れるだけの雅量を示さなければならない。
我々は二つの意味で深く自重するところがなくてはならない。第一に日本人として国民的に個別性に於て自重するところがなくてはならない。第二にその日本人とは恣(ほしいまま)な得手勝手な日本人であってはならない。世界的理念を体現するところの日本人でなければならない。日本人としての自重は世界的理念に根ざすという事実から自重を汲みとるものでなければならない。将来の日本文化を指導する原理は一言で云えば日本主義的世界主義または世界主義的日本主義というような一見逆説的なものでなければならぬと考えるのである。