安易な国粋主義を戒めた「日本主義」哲学者の気概 九鬼周造の生き方に見る「媚態」と「やせ我慢」
要するに、「普遍者」ではなく「個物」を、その具体的な姿でありのままに把握するということを、九鬼の哲学は目指していたわけです。だとすれば、九鬼が「いき」をあくまでも個別的なものとして捉え、たとえ西洋に似たものがあっても、それは「いき」とは異なると考えるべきだと主張するのは当然のことです。逆に、「いき」が文化間で通約可能だと考えるのは、普遍主義の立場です。「いき」のイデアがまず存在して、それが多様な文化において多様な現れ方をしていると考えるのが普遍主義、あるいは実在論の立場ですが、九鬼はこれを否定しているわけです。
別の言い方をすると、これは言語の翻訳不可能性の問題でもあります。九鬼は、「いき」という日本語は日本人の性情や歴史全体を反映した言葉であり、他国語に完全に翻訳することはできないと言っています。ついでに言うと、この点についての九鬼とハイデガーとの対話が、ハイデガーの『言葉についての対話』に収録されています。ハイデガーの言い方だと、これが「言葉は存在の住み処」ということになります。 古川:ただし、九鬼が言いたいことは、翻訳は不可能だから、翻訳なんかしたって意味がないということではありません。逆に、その不可能性を明らかに自覚しつつ、しかしできるかぎりその可能性を追求しなければならないと彼は言います。後ほど論じたいと思いますが、実はこの態度そのものが「いき」でもあります。他者と完全には一体になれないことを自覚しつつ、しかしできるかぎりの共通了解をめざしていく、ということです。
■安易な「日本主義」「国粋主義」への戒め 続いて、2つ目の「日本的性格について」という講演が国粋主義だという批判について。 まず押さえておかないといけないのは、この講演は第三高等学校で行われた「日本文化講義」だということです。日本文化講義とは、当時の文部省思想局が「思想善導」を目的として全国の直轄学校に命じた、いわば官製講義です。テーマや内容にも、当局がかなり介入しますし、当然、講義は監視されます。講義の内容次第では講師が教壇を追われる可能性もありました。ですから、そもそもこの講演が「当時の平凡な文化的ナショナリズムに大幅に屈服しているように見える」のは当たり前なんです。そういう講演をしなければ大変なスキャンダルになってしまうわけですから。