安易な国粋主義を戒めた「日本主義」哲学者の気概 九鬼周造の生き方に見る「媚態」と「やせ我慢」
他方、批判の面について言うと、九鬼は8年間もの長きにわたってヨーロッパに留学して、ハイデガーのゼミに出て勉強したりしていましたが、帰国後は文化的特殊主義に陥り、文化的ナショナリズムや国粋主義の傾向を強めたと言われています。これは、特に次の2つの点について言われます。 古川:1つ目は、当初は肯定されていた「いき」の他文化との通約可能性が、帰国後に否定されたことです。『「いき」の構造』には、留学中に書かれた草稿(1928年)、帰国直後の改稿(1929年)、そして決定稿(1930年)がありますが、改稿までは、「いき」は日本の伝統だが、西洋人にも理解でき、西洋にも「いき」と同じものがあると九鬼は書いていました。
しかし、最終的な決定稿では、その種の記述が全面的に削除されて、「いき」はあくまでも日本独自の伝統であり、たとえ西洋にそれと似たものがあるとしても、それは「いき」ではないとされました。このことが、「閉鎖的な文化特殊主義」や「文化的ナショナリズム」であると批判されているわけです。 2つ目は、1930年代後半のいくつかの論考、特に「日本文化」や「日本精神」を主題にして論じた「日本的性格について」という講演の内容が国粋主義的だという批判です。九鬼の偶然性の哲学はすばらしいと絶賛していた坂部先生も、ここでは「真に開かれた文化多元主義の思考は、急速に失われ、むしろ閉鎖的な文化特殊主義ないし文化的ナショナリズムへの傾きを強めていった」とか「当時の平凡な文化的ナショナリズムに大幅に屈服しているように見える」と批判しています。
■不可能性を踏まえた翻訳への挑戦 古川:これらの批判に対して、それはおかしいと論じたのが私の論文です。 まず1つ目の、九鬼が「いき」の文化間での通約可能性を否定したという点について。これは、あくまでも九鬼の哲学的立場の展開に基づくものであって、ナショナリズムうんぬんは関係ありません。小浜善信先生が、九鬼は中世哲学で言う「実在論者」ではなく「唯名論者」、つまり「個物主義者」であることを強調しておられますが、「いき」の草稿から決定稿への展開にも、この立場をより明確にしていった過程を見て取ることができます。