昭和100年へ 信は力なりー京都工学院が継ぐ〝伏工精神〟 9大会ぶり伝説ジャージーが花園に帰ってくる!(後編)
昭和の高校ラグビー界に衝撃を与えた「伏見工伝説」の後編は-。「泣き虫先生」の監督就任6年目の1979(昭和54)年度に全国高校ラグビー大会初出場を果たした伏見工ラグビー部は、翌年度には初優勝を成し遂げる。かつて京都中に悪名をとどろかせていた高校は、全国優勝4度のラグビー強豪校としてその名を知られることになった。その伏見工は学校統合で京都工学院となり、今はない。それでも「信は力なり」の精神は受け継がれ、令和になった今冬、伝統の赤黒のジャージーが9大会ぶりに花園に姿を現す。(取材構成・月僧正弥) 【写真】花園初出場を決め、記念撮影する伏見工の選手たち。前列左端が大八木淳史氏、後列右端が当時の山口良治監督 山本清悟(現奈良商工高教諭)が3年になり、戦力が整った1978(昭和53)年度のチームでも花園初出場はならなかった。当時2年の元日本代表LO大八木淳史は振り返る。「ラグビーはちゃんとやっていました。でも、私生活はどうだったのか」。 監督の山口良治は10項目ほどのラグビー部のルールを定めた。 帰りに買い食いをしない▽遅刻はしない▽カンニングはしない- 「当たり前のことですが、当時は当たり前ではなかったのです」と大八木。以前のような荒廃した校内の雰囲気は無くなっていたが、ヤンチャな気質はまだ残っていた。 私生活から見直し、ラグビー部は翌年度、ついに初の花園出場を果たす。初出場初優勝の期待もあったが、準々決勝で国学院久我山(東京)に敗れた。 次のSO平尾誠二主将の代は、平尾以外にもSH高崎利明(現京都奏和高校長)ら有力選手が多数入部。厳しい練習で力をつけ、翌80年度は大工大高との全国大会決勝まで駆け上がった。このときエース平尾は左太ももに「今で言う筋断裂」(高崎)の重傷を負っていた。 決勝は緊迫した展開になった。残り5分で3-3の同点。伏見工は敵陣で得たスクラムを相手に回され、ボールがこぼれた。FL西口聡がそれを拾って突進し、高崎につなぐ。高崎は「足が悪く、出遅れていた」と平尾を飛ばし、CTB細田元一へパス。そこからボールはWTB栗林彰へと渡り、栗林が左タッチライン際を駆け抜け、決勝トライを決めた。 「泣き虫先生」こと山口が74年に伏見工に着任してから7年目。ついに頂点に立った。選手たちに胴上げされた山口の目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。