“0から1を作る”信念。指導者37年目で悲願成就。大津で谷口彰悟らを育てた名伯楽・平岡和徳TD が歩んだ道のりと子どもたちへの情熱
誰よりも体現した“Can notをCanに”
最初に赴任した熊本商では古豪を25年ぶりにインターハイ出場に導く。そして、1993年4月、88年度を最後に選手権出場から遠ざかっていた大津へ移動。新たなスタートを切った。 平岡TD曰く、当時の大津は決して良い状態ではなかったという。県内ではインターハイ3度、選手権2度の出場を誇り、力がないわけでないが、平岡TDは当時のチーム状態をこう回想する。 「当時の大津は『熊本商の練習はきついから』という理由で選んだ選手が多かった。なので、俺が赴任したら選手は顔が青くなっていた(笑)。良い選手はいたけど、ピッチ外で物足りない選手が多かったんですよ。生活習慣から見直さないといけない。授業態度、ピッチ外での生活も含めて、24時間をデザインする必要があった」 また「僕がこんな練習をやるっていう話をしたら、当時のキャプテンが『どんどん辞めていきます』って言うんですよ」と振り返るほど、赴任当初はスムーズにいかず、学校側からの理解もなかなか得られなかった。他の先生に嫌味を言われることもしばしば。「簡単にサッカー部は良くなりませんよ」なんて言われたりもした。 実際に最初の3年間は勝てず、前任校の熊本商の壁に阻まれてしまう。それでも根気強く指導を続け、徐々に結果が出始める。2年目から選手が集まってきたことも重なり、“新生・大津”を作る道筋が見えてくる。 練習時間を100分にする施策がスタートしたのもこの時期。これは大津の生徒の気質を踏まえてのことだったが、「練習に盛り上がらず、どこか冷めている。人間はやっぱり終わりを作らないと頑張れない」という視点から生まれた取り組みは、後に平岡TDの代名詞となる。 そして、迎えた就任4年目。ようやく選手権出場を勝ち取る。大津にとって、8年ぶりの快挙だった。また、大津から多くの選手が出場した同年と翌年の国体少年の部では準優勝。2年連続で小野伸二や高原直泰らがいた静岡に敗れたが、この頃から周囲の見方が変わってくる。 「一気に先生たちの見る目が変わってきた。高校生は感受性の高い世代ですから、真剣に関わってくれる大人が多ければ多いほど変わる。サッカー部の応援団がどんどん増えていったのは大きかった」 大津からJリーグに進む選手も輩出し、チーム作りも軌道に乗ってきた。そうした流れを踏まえ、平岡TDは新たな目標を立てる。大津だけではなく、熊本県全体に目を向けるようになったのだ。 県の目標として日本一を獲得することはもちろん、日本代表選手の育成とワールドカップに出場する選手の輩出を指針に掲げたのだ。だからこそ、現場にこだわった。 歳を重ねて大津の教頭となり、練習に顔を出せない時もある。それでも解決策を探し出し、2017年4月からは熊本県宇城市の教育長に就任。前例のないケースだったが、公務にあたりながら子どもたちと向き合う時間を作るためだった。 「子どもたちのCan notをCanにする」と常日頃から口にしていたが、誰よりも本人がその言葉を体現していたのかもしれない。
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