外国では「畑」の地図記号がない!?日本でも元々存在しなかった理由とは?
◆畑の記号の登場 ところが最近になってオーストリア測量局(BEV)のデジタル地形図に「畑の記号」が登場しているのに気がついた。 これは2010年に制定された図式で、農耕地全体がクリーム色で表現され、その色の上に果樹園やブドウ畑の記号が載っている中で、クリーム色だけのエリアが「畑」というわけである。デジタルであれば色をつけるのに手間はかからないから、他の国でもデジタル地図では採用されているかもしれない。 ひとつ付け加えておくと、日本でも明治13年(1880)から作成された2万分の1「迅速測図」には、実は畑の記号があった。その図の凡例によれば、細かい破線で表現された畔道に囲まれた白い部分が畑なのだという。 それならやはり無記号ではないかとクレームを付けたくなるが、実は破線で描かれたこの「畔道」は単なるイメージであって、実際の具体的な道とは関係ない(実際の細道は太めの破線)。一見して本物の畔道らしいのだが、「畑というのはこんな風に畔道が通っているよね」というデザインなのだ。注意深く見れば、これらの畔道は東西方向と南北方向にほぼ一定の間隔で描かれており、北西や東南東など半端な方位を向いたものが一切ない。 それにしてもこの「なんちゃって畔道」はなかなかリアルに見えるので、読む人にだいぶ誤解を与えたようだ。 博物館に勤務している知人に「これは単なる畔道イメージですよ」とお伝えしたら驚愕しつつ、「この畔道を基に古代の条里制区画を復元しようと苦労している研究者がいますよ!」と教えてくれた。 私の知らない誰かさんの苦心の研究も、この誤読によってすべて瓦解してしまう。それを思うと心が痛むが、きっと明治期にもそんなことがあって、以後は「畔道イメージ」を描くのをやめて無記号に徹するようになったのだろう。
◆田んぼの記号 長らく「畑」の記号がなかった日本にも、田んぼの記号は昔からあった。なんちゃって畔道のある迅速測図(刊行図)には「田」と「水田」の記号があり、やはり実線・破線の畔道イメージを伴う記号であった。 ここで言う「田」とは「大正6年図式」に言う「乾田」らしく、つまり現在の多くの田のように稲刈りの少し前など必要な時期に水を抜くもので、収穫後は水のない状態が続く。これに対して水田は地形条件などのため常時水のある田である。 明治17年(1884)から関西で整備が始まった2万分の1「仮製図式」ではこれに「深田」が加わった。「明治24年図式」では呼び名を「沼田」に改めるが、「大正6年図式」まではこの「乾田」「水田」「沼田」の3種類が継続している。 国土地理院の前身である陸軍陸地測量部が地形図編集・作成のマニュアルとして部内向けに刊行した『地形図図式詳解』には「乾田ハ稲田ニシテ冬季水涸レ歩行シ得ヘク 水田ハ稲田、蓮田、藺田〔イグサ=引用者注〕等ニシテ四季水ノ存スルモノヲ謂フ 沼田ハ泥土膝ヲ没シ若ハ小船ヲ用ヒテ耕作スルカ如キモノヲ謂フ」と明確に分類されている。 「沼田」については、大正4年(1915)に再版された『地形図之読方』(後藤好輔陸地測量部班長・砲兵少佐著、川流堂小林又七本店)にも「小舟ヲ用ヒテ耕作セサルヘカラサル如キ深田ヲ謂フ」とあり、今ではほとんどお目にかかれない田んぼのようで私には具体的なイメージが浮かばなかったが、司馬遼太郎さんが『街道をゆく』のシリーズで新潟付近を取り上げた「潟のみち」で、年輩者に聞いた内容を記した次のくだりを読んでようやく納得した。 「田仕事というのはすべて―田植えも秋の穫り入れも―肩甲骨のあたりまで水に浸ってやる。(中略)稲は半ば水草のように浮いて育つ。みのりはふつうの稲田の稲より当然ながらすくない。刈り入れのときは田舟をうかべ、農夫自身は肩まで水につかり、水面上で熟している稲を刈っては舟の中に投じてゆく」という具合である。 昭和30年頃までの話だというから、今の新潟県民でも見たことのない人が多いだろう。