魔王と呼ばれた織田信長は「朝廷や宗教など権威を否定した天才的武将」でなく「朝廷にも宗教にも篤い勤王家だった」【イメチェン!シン・戦国武将像】
歴史上、知られている戦国武将像はイメージが固定されている。「あるゆる権威を否定した戦国の天才武将・織田信長」とか「独眼竜の異名を取った奥州の覇者・伊達政宗」など。しかし、最近の歴史研究などによって、武将のこうした1つのイメージが変わりつつある。これまでとは異なるイメージチェンジした新しい戦国武将像を追った。 織田信長(おだのぶなが)のイメージといえば、無神論者であり既成の権威を破壊して新しい権威を創り出す天才的な武将、であろう。中には「信長は神になろうとした」などという見方もある。戦国時代である。武将とその家臣団は、戦場を駆け、常に死と直面していた。だからこそ、武将たちの信仰心はすこぶる篤かった。謀略でのし上がったといわれる斎藤道三(さいとうどうさん)は熱心な法華宗信者であり、野心家で謀略家の、毛利元就(もうりもとなり)も毎朝太陽を拝み、念仏を唱えることを欠かしたことはなかった。上杉謙信(うえすぎけんしん)も武田信玄(たけだしんげん)も神仏への帰依は深かった。信長とて、例外ではないはずであるが。 元来信長の家系は越前(福井県)・織田剣(つるぎ)神社の神官であるといわれる。信長の父・信秀(のぶひで)は当然のことながら信仰心に厚く、朝廷への財政援助も積極的に行っているほどの勤王家であった。天文9年(1540)には朝廷の懸案だった伊勢神宮の仮殿造営の費用を寄進しているし、崩壊しそうになっていた土御門内裏(つちみかどのだいり/京極殿)の修理費として4千貫(約5万石か)もの巨額の銭貨を献上したほどである。 信長も越前・剣神社や尾張・熱田神宮を崇敬し、永禄12年(1582)に、伊勢・北畠具教(とものり)を討った帰途には伊勢神宮に参拝し、天正10年(1582)1月には伊勢神宮の内宮・外宮の造営を命じ、自らも3千貫を寄進している。信長が宗教を弾圧したように見えるのは、弾圧ではなく、その宗教を奉じる人々・僧兵などが信長の行く手を遮る行動を見せたからであり、無神論者からという訳ではなかった。 朝廷対策も同様であった。信長が野生児といわれた頃は、確かに朝廷の権威などは認めていなかった節がある。しかし、桶狭間合戦で今川義元(いまがわよしもと)を敗死させた後の永禄10年(1567)に「尾張守」に任官してから態度をガラリと変えた。任官の際の綸旨(りんじ。天皇の文書)には「美濃・尾張の天皇家の領地を回復するためにも今後ますます勝ち進むように」と記されていた。信長はこれによって、天皇家・朝廷の威力を知った。この時、信長は34歳、正親町(おおぎまち)天皇は51歳であった。 以後の信長は、朝廷・天皇家の権威を利用するためにも勤王家を装わなければならなかった。しかし、本当のところは正親町天皇の掌中に入れられたのが信長であった。日本中世史の今谷明氏は「信長は天皇制という蟻地獄(あるいは魔力といってもよかろう)から抜け出せなくなっていた」と指摘する。 では何故、信長は朝廷の権威を認める勤王家に徹したのか。それは、あまりに強く天皇の権威を制限すれば、天皇は権威的存在ではなくなる。そうなれば、信長自身の権威低下にもつながりかねないという「信長のジレンマ」があった。 言い方をかえれば、信長は天皇制・朝廷という権威を否定しては存在し得ないことになる。たとえ、ポーズであっても「勤王家」をえんじなければならず、あらゆる権威を否定する信長などは存在できないことになるのである。「勤王家としての信長」の心理と背景はかなり複雑なものがあった。そして正親町天皇は、この時代の誰よりも信長にとって厄介な存在であったことになる。
江宮 隆之