この秋、古都・奈良を訪ねる|世界遺産「興福寺」で国宝を見学し、「奈良町」で食と酒を味わう
「いざいざ奈良」で注目される「奈良町」散策の魅力
鈴木亮平さんの出演でおなじみのJR東海「いざいざ奈良」キャンペーン第6弾は、世界遺産の「興福寺」をはじめ、文化や歴史を味わえる町並みの「奈良町」エリア。 写真はこちらから→この秋、古都・奈良を訪ねる|世界遺産「興福寺」で国宝を見学し、「奈良町」で食と酒を味わう 京都駅から交通の便のよい近鉄奈良駅の周辺ゆえに古都の街歩きの楽しみを味わうには最適だ。 8世紀、日本の首都として栄えた古都・奈良。歴史的な寺院が点在、落ち着いた趣のある街には、自由に歩く鹿もいる。豊かな歴史と自然の美しさを存分に味わいたい。 ◆世界遺産「興福寺」を拝観。1300年の時の流れを偲ぶ 和銅3年(710)の平城京遷都に伴い、藤原不比等により飛鳥から移された興福寺。藤原氏の氏寺として栄えた法相宗の大本山である。奈良で最も高い五重塔(高さ約50.1m)や北円堂、南円堂、三重塔といった国宝や重要文化財の建築物とともに、天平時代の阿修羅像ほか、国宝に指定された仏像が日本一多い興福寺。何度訪れても見どころは尽きない。 もっとも国宝五重塔は現在、明治時代の修理以来120年ぶりという大規模修理工事の真っただ中で、素屋根に覆われている。修理が完了するのは令和13年2月頃の予定とされ、残念に思う向きもあるだろうが、それはそれ。「今しか見られない風景」として、歴史の一場面に立ち会っているのだと受け止めたい。 歴史をひもとけば、興福寺は繰り返し火災の被害にあってきた。 そのひとつ、伽藍の中心である中金堂は、藤原不比等により奈良時代に創建されたと伝えられ、江戸時代中期までに6回の焼失と再建を繰り返してきたが享保2年(1717)の焼失後は、再建には至らなかった。 当時の江戸幕府は財政難、興福寺も経済的な苦境の時期にあったためだった。約100年後の文政2年(1819)、町家の人々の寄進により、規模を縮小して「仮堂」が建てられたが、再建されることなく時が流れていった。 平成30年(2018)、中金堂は創建当初の姿や規模で復元、再建落慶された。桁行9間(正面37.0m)、梁行6間(側面23.0m)の堂々たる建物は、奈良時代以降の文献に残る記録や、敷石の発掘調査などの結果を反映したもの。創建当時と同じ朱や青丹などあざやかに彩られている。 1300年の昔、奈良はシルクロードの終着点として、渡来人が行き交う国際都市であった。極彩色の建物からは、そんな古代都市の様子が浮かび上がってくる。 11月には中金堂の夜間特別拝観が実施され、暗闇に浮かびあがる幻想的な雰囲気を堪能できる。 ※実施の詳細は、興福寺HPにて。 ◆興福寺で最古の建物・三重塔 先述のとおり、五重塔の姿は見えないが、興福寺には伽藍の西側に優美な三重塔(国宝)がある。北円堂と並んで興福寺の境内に残るもっとも古い建造物だ。 康治2年(1143)に完成するも、平重衡の南都焼打によって治承4年(1180)焼失、鎌倉時代前期に再建されたものだが、木割り(部材の寸法や組み合わせのバランス)が細く、軽やかで優美な線は、平安時代の建築様式を伝えているとされ、見どころとなっている。 この三重塔には大きな特徴がある。通例、塔は、相輪(塔の屋根から天へ伸びる金属製の部分の総称)から、基壇まで心柱が貫いているものだが、この三重塔の心柱は相輪から二重まで。初重は四天柱(周囲の4本の柱)間に対角線に板を張り、板の両面に千体仏が描かれている。この構造は興福寺の三重塔に独特のもので、他に例はないそうだ。 さらに明治時代の神仏分離令以降は、初重東側の須弥壇に、かつて子院だった世尊院の弁才天坐像と十五童子が安置されている。 1年に1度、7月7日の弁才天供で、特別開扉され法要が行なわれているが、EXサービス会員向け限定で、11月23日(土・祝)、24日(日)に特別御開扉が実施される。美しい三重塔の切り絵御朱印を授かることができる。 ◆国宝館の仏像は見逃せない また興福寺は、国宝に指定された仏像彫刻の所蔵件数が日本一の寺院である。見ごたえのある国宝館へ立ち寄らないわけにはいかない。 千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)立像を中心に、奈良時代の阿修羅(あしゅら)像などの乾漆八部衆(はちぶしゅう)立像や乾漆十大弟子(じゅうだいでし)立像、平安時代の板彫十二神将(いたぼりじゅうにしんしょう)立像、鎌倉時代の木造金剛力士(こんごうりきし)立像、木造天燈鬼(てんとうき)・龍燈鬼(りゅうとうき)立像ほか、多数安置されている。 手を合わせたのち、心ゆくまで向き合いたい。 ※記事中の写真は、特別な許可を得て撮影しています。