認知症の母との同居で変わった、暮らしの価値観
【&w連載】東京の台所2
〈住人プロフィール〉 57歳(自営業・女性) 分譲マンション・3LDK・大江戸線 勝どき駅・中央区 入居18年・築年数18年・夫(60 歳・小売業)、実母(85歳)との3人暮らし 【画像】同居して選ぶ洗剤も変わった(25枚)
伝統工芸を軸にしたものづくりの商品開発やブランディングを手がける会社を営んでいる。 現在のマンションは、彼女が40歳の独身時代、瀬戸内に住む両親が泊まれるようにと購入した。80平方メートル・3LDKは、ひとりっ子のため両親になにかあったら同居も見据えての選択である。 45歳で同業者と結婚。 仕事柄、自宅に置くものは夫婦ともに家具はもちろん、器やカトラリーひとつまでこだわった。ものを持ちすぎず、デザイン的にも機能的にも納得のゆく、日本の伝統やものづくりの志が感じられるものを厳選していた。 それから17後の昨年、人生も夫婦の暮らし方もものの持ち方も大きく変わる出来事がおきた。実家の母の認知症が進み、ひきとって同居を始めたのだ。 「今思えば、最初の異変は、出張ついでに実家に立ち寄った2017年でした。母は整理整頓や掃除好きなのに、どうも冷蔵庫内が雑然としている。よく見ると、賞味期限切れのものもたくさん。以来毎月帰省するようにしたのですが、ラップが何十本もあったり、きちんとサイズ別にしまっていたポリ袋がいっしょくたになっていたり。これって噂(うわさ)のボケるってやつなのかなと、まだ半信半疑でしたね」 そこからほんの少しずつ母の様子が変わってゆく。 絵手紙を習ったり、料理が好きで人を招いたり、スーパーの買い物も頻繁だったのが、いつしか外出をしたがらなくなった。父に「自分の食べたいものを買ってきて」と言い、料理もしない。そもそも財布にあまり触らなくなった。 フルーツが大好物の母のために、折に触れ産地からよく直送していた。ところが、到着しているのに「届いていない」と何度も連絡が来るようになり、思い切って包括センターに相談に行く。間違いなく認知症です、と言われた。 その後、病院でも同じ診断が出て、父と介護ヘルパーの手を借りながら、なんとか生活をしてきた。 「母は日本茶が好きで、朝晩丁寧に淹(い)れていたのですが、だんだん急須で淹れられなくなってお茶パックを使うように。コーヒーも豆から挽(ひ)いていたのが、スティックに。2022年の秋にはそれさえも飲まなくなりました。半年で急に症状が進み、引き取ることを考え始めました」 折しも翌年、父が長期入院に。 とはいえ簡単には引き取れない。夫にも負担をかける。仕事を投げ出し、実家で暮らすのも不可能だ。 夫婦で話し合いを重ねた。 「子育てもしたことないですし、互いに仕事を持ち、食べたいときに食べ、寝たいときに寝る自由な生活から、認知症の親とのマンションで同居は厳しい。夫にも申し訳なくて強くは言えませんでした」 ふたりの背中を押したのは義母だった。息子には、「あなたが彼女を支えなきゃだめよ」。義娘には、「私のことはいいから、あなたは自分のお母さんをちゃんと看(み)てあげなさい」と助言。 それが本当にありがたかったと、振り返る。 じつは義母もひとりっ子で、認知症の実母を看取(みと)っている。介護に苦しんだ長い日々を幼い息子も見ている。「だから、あなたも彼女の辛(つら)さがわかるでしょう」と。 夫は、同居するため神奈川の広いところに越す、納得いくまで妻が瀬戸内の実家で看るなど、いろんなアイデアを提案した。そこでふたりが一致したのは──。 「介護にはこれからもどれだけ費用がかかるかわからない。自分たちが稼げるうちは稼ごう。東京のこの家で仕事を続けるためにはどうしたらいいかを軸に考えよう」 現実的に、当時彼女が毎月していた1週間から10日の帰省は、仕事的にも、経済的にも限界に来ていた。 結果、今の家を母が住みやすいようリフォームして同居し、夫は近くに小さな部屋を借りることになった。 朝夕の食事は、基本的には一緒に取り、互いに忙しいときは、それぞれの部屋で過ごす。彼女が出張の間は、彼が母の面倒を看る。どんなにできた人でも、ふたり暮らしから、連れ合いの母と急に3人暮らしになったら息詰まるときもあるだろう。ふたりで考え抜いた、ベストな選択であった。 しかし、同居が始まると、想定外の困難が連続する。