巨大軍需工場の悲劇、真っ先に攻撃の標的となり犠牲者多数 「東洋一」とうたわれゼロ戦エンジンなど製造
勤労動員されていた矢島さんは、警報が発令されるたびに体中が油まみれのまま、工場の3階から非常階段を使って敷地の外にある防空壕へと駆け出したことを覚えている。 ▽人々の戦争への認識を一変させた出来事 「誤爆も多く、一般市民が多く巻き込まれた武蔵製作所への空襲は、人々の戦争への認識を大きく変えた出来事だった」。こう指摘するのは「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」代表の牛田守彦さん(63)だ。 近代以降の日本は、日清戦争や日露戦争などを戦ってきたが、戦地は多くの場合、国外にあった。牛田さんは「戦争は自分たちの身近で起こるものではないとの考えが当時は一般的だった」と言う。 武蔵製作所への空爆をきっかけに、多くの市民が抱くことになった「恐怖心」は次第に現実のものとなっていった。米軍は、日本を早期に敗戦に追い込もうと軍需工場にとどまらず、無差別的な攻撃を本格化していった。 1945年3月10日の東京大空襲では約10万人が死亡。地方中小都市への空爆はその年8月の終戦間際まで繰り返され、広島と長崎には原爆が投下された。 ▽かつての標的、戦後は住民の反対を受けながら米軍宿舎に
敗戦後、中島飛行機には生産停止命令が出された。武蔵製作所はその後、皮肉な運命をたどった。 残された建物の一部は改修され、地元住民の反対運動を受けながらも米軍宿舎となった。敷地内には、学校やショッピングセンターも設けられ、「グリーンパーク」と名付けられた。中里さんは「かつて標的とした場所を自らの宿舎としてしまうことに驚いた」と振り返る。 1970年代には米軍宿舎も廃止され、建物は全て取り壊された。今は広大な武蔵野中央公園に、説明板と工場地下道のコンクリート製の床面などが残るだけだ。 「時がたつうちに、戦争の悲劇が忘れられてしまうのではないか」。延命寺では、戦争の風化を心配する住民たちから預けられた爆弾の破片などを保管している。犠牲者を供養する平和観音も建てられた。中里さんは「歴史を証明するものとして大切にしたい。若い人を戦場に送り出すことが二度とあってはならない」と語る。