巨大軍需工場の悲劇、真っ先に攻撃の標的となり犠牲者多数 「東洋一」とうたわれゼロ戦エンジンなど製造
こう振り返るのは武蔵野市にある「延命寺」住職の中里崇亮さん(88)だ。武蔵製作所の目の前にあるこの寺で育った中里さんは、「ガァ-」というエンジンのテストとみられる強大な音が今も耳に残るという。「寺の横の通りを朝に夕に、多くの従業員が列をなして歩いていた」。周辺には下請けの町工場も多かった。 ▽脳に響く大音響、顔の肉をそぎ取らんばかりの爆風 一方、戦争が長引くにつれ、日本軍は各地で劣勢を強いられるようになっていた。1944年7月、「絶対国防圏」の一角としていた北マリアナ諸島のサイパン島が陥落。日本本土は、米軍が誇る超高性能の大型戦略爆撃機「B29」の攻撃圏内に入ることになった。 この時、真っ先に標的とされたのが航空機エンジンの国内シェア3割を握っていた中島飛行機の武蔵製作所だった。 1944年11月24日昼過ぎ、サイパン島を飛び立った二十数機が武蔵製作所に来襲。工場などを空から攻撃した。
ガラガラ、ダダーン! 当時、国民学校2年生だった中里さんは下校途中に響いたごう音に驚き、生け垣にもぐり込んだ後、防空壕に慌てて身を隠した。「その時は空襲がどんなものか知らなかった」。何が起きているのかも分からなかったが、寺に戻ると付近の大木が倒れていた。爆風の衝撃と知り、武蔵製作所が攻撃されたことを理解した。 戦後刊行された「東京大空襲・戦災誌」には、工場内の生々しい様子が貴重な証言として記録されている。 空襲警報の発令は遅れ、昼休み中だった工場内は大混乱に陥る。「ガンガンという脳に響く音響とともに、ビュンビュンと爆風が顔の肉をそぎ取らんばかりに地下道を吹き抜けていく」「被爆者は黒焦げになり、彼らは少し離れた中島飛行機付属病院に収容された」 この日の空襲による死傷者は130人を超えた。ただ高い位置からの攻撃だったため工場の破壊には至らなかった。そのため空襲はその後も繰り返され、1945年8月8日まで計9回に及んだ。死亡した従業員らは2百人以上とされ、付近の住民数百人も犠牲になった。