母子を置き去りにして借金取りから逃げた女たらしの父…世界初のプログラマーを輩出した貴族の逆転人生
「ある朝目覚めてみると有名人になっていた」。19世紀の英国を代表する詩人、ジョージ・ゴードン・バイロン(1788~1824)が、『チャイルド・ハロルドの巡礼』を発表した直後に記した、有名な一節である。 彼は「バイロン男爵(Baron Byron)」という歴(れっき)とした貴族の家に生まれ、貴族院議員の議席も有しながらも、才能に溢れた詩人として活躍し、ゲーテに「今世紀最大の天才」と賞賛された。更に、その娘エイダは父とは異なる分野で力を発揮し、世界初のプログラマーと呼ばれることになる。 しかし、才能がありながらも、親子は共に36歳でこの世を去った。後世に名を遺したバイロン男爵家の人々はどのような人生を辿ったのか。英国貴族史研究の第一人者である君塚直隆氏の『教養としてのイギリス貴族入門』から抜粋して紹介する。
パリで客死した初代男爵
バイロンの一族は、元々はイングランド北西部のランカシャに所領を有していたが、16世紀半ばのサー・ジョン・バイロンの時代に、中北部のノッティンガムシャに建つニューステッド・アビー(修道院)が国王ヘンリ8世から下賜され、以後はここが拠点となった。 まず一族のなかで頭角を現したのがジョン(1598/99~1652)。彼はノッティンガムシャ選出の庶民院議員となり、ときの国王チャールズ1世の側近に取り立てられる。 王の失策によりスコットランドで反乱が勃発するや、ジョンはすぐさま兵を集めて鎮定に乗り出す。しかし事態はやがて清教徒(ピューリタン)革命(1642~49年)へと発展した。国王派について、当初は連戦連勝の勢いを示したジョンは、1643年についに国王から初代バイロン男爵に叙せられた。しかし、オリヴァ・クロムウェルの登場で1645年頃からは逆に連戦連敗へと追いやられる。チャールズ1世の首は切り落とされ、議会派の勝利で革命は幕を閉じた。ジョンは生き残った王族たちと一緒にフランスに逃れ、パリで突然この世を去った。