母子を置き去りにして借金取りから逃げた女たらしの父…世界初のプログラマーを輩出した貴族の逆転人生
ギリシャに死す
社交界の寵児となったバイロンは、やがて愛人(のちの首相メルバーン子爵の夫人)ももつようになったが、1815年には文通相手だったアナベラと結婚し、一人娘にも恵まれる。しかし亡父の悪い癖を引き継いだのか、母子の許にはほとんど帰らずにあちこち放浪する始末。ついに夫妻は離婚し、母子は彼とは2度と会わないことになってしまう。 バイロン自身はニューステッド・アビーも9万5000ポンド近くで売却し、所領からの収入と彼自身の原稿料とで6000ポンドほどの年収を得られるようになっていた。この潤沢な資金をもとに彼はイタリアに邸宅を借りて、さらなる詩作に励む。 しかし今度は祖父(バイロン提督)伝来の冒険心がうずくようになったのか。1820年代にはいり、ギリシャがオスマン帝国からの独立を求めて戦争に乗り出す。ヨーロッパの文明の源であり、若き日に訪れた追憶からも、バイロン男爵はついにギリシャ独立戦争に参戦を決意する。しかし現地で熱病に罹った彼は、1824年4月にあっけなく急死した。まだ36歳という若さであった。訃報は5月半ばにはロンドンにも伝わり、イギリス中に大きな衝撃を与えた。爵位はいとこ(父の弟の子)のジョージが引き継ぐこととなった。
コンピューターの発展に寄与した一人娘
残されたアナベラと一人娘エイダは、母の実家の支援を頼りに何不自由のない生活を送れた。母は、娘には父のようになってほしくなかった。想像力のたくましい娘ではあったが、詩作ではなく、数学や科学の道に進ませてついに成功を収める。やがてエイダは当代一流の数学者チャールズ・バベッジと出会い、彼が研究を進めていた階差機関や解析機関(巨大な計算機)に興味を示し始めていく。そして1843年には彼の研究にエイダ自身の理論と分析を付した論稿を発表した。これがのちに「初歩的なコンピューター」研究の草分けとして、世界に認められていくことになるのである。 しかしやがてエイダは子宮癌を患い、36歳でこの世を去る。生後1カ月ほどで生き別れになった父バイロンと同じ年齢で亡くなるとは、なんと皮肉なことであろうか。 1979年にアメリカ国防総省は、新しいプログラミング言語の名称を発表した。「エイダ(Ada)」。コンピューターの発展に寄与したバイロンの一人娘に敬意を表して付けられた名前である。ともに36歳でこの世を去った父と娘は、それぞれ別の世界で不朽の名声を手に入れたのだった。それはまた、バイロン家の家訓「バイロンを信じよ(Crede Byron)」を異なる道から実践して見せた、父と娘だったのかもしれない。 君塚直隆 1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在』(2018年サントリー学芸賞受賞)、『悪党たちの大英帝国』、『ヴィクトリア女王』、『エリザベス女王』、『物語 イギリスの歴史』他多数。 協力:新潮社 新潮社 Book Bang編集部 新潮社
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