母子を置き去りにして借金取りから逃げた女たらしの父…世界初のプログラマーを輩出した貴族の逆転人生
海軍提督の祖父、女たらしの父
爵位はジョンの弟リチャードの家系に引き継がれ、第4代男爵ウィリアムの次男ジョン(1723~1786)が次の傑物となった。彼は海軍の将校になり、船で世界中を廻った。アフリカ、大西洋、南米、太平洋、そしてカリブ海。最終的には提督の地位にまでのぼりつめ、文字通り「7つの海の覇者」となっていた。ところが同じ名前の長男ジョン(1756~1791)は、陸軍将校となったものの、父とはまったく比較にならない、箸にも棒にもかからない男になってしまった。バイロン大尉はハンサムで女たらしであった。 最初の妻は、4000ポンドの年収が保証された裕福な家の出であったが、彼女が亡くなるとバイロン大尉は「金のなる木をもった」別の女性を求めて、イングランド西部の保養地バースへと旅に出る。ここでまた資産家の娘キャサリン・ゴードンに出会う。彼女と結婚するや、キャサリンの持参金2万3000ポンドをすべて取り上げ、莫大な金はこれまでの借財の返済で瞬く間に消えてしまった。やがて2人は男子に恵まれたが、その後も大尉は借金取りから逃れるため、母子を置き去りにしてあちこち転々とする始末であった。 そのような矢先、大尉は35歳の若さで肺病で急死した。残された母子は母の実家からの援助でなんとか生活していく。バイロン大尉は、あまりの放蕩ぶりに呆れた4代男爵から廃嫡されていたのである。わずか3歳で父を亡くしたこの男の子こそが、のちの偉大なる詩人ジョージ・ゴードン・バイロンそのひとであった。
10歳で男爵に、24歳で一流詩人に
そのままなら日陰者としての人生が待っていたであろうジョージに、運命の女神が微笑んでくれるときがきた。1794年に第5代男爵の世継ぎ(孫)がフランス革命戦争のさなかに戦死し、6歳のジョージが突然男爵家の後継者となったのである。その4年後に老男爵が逝去し、ここにジョージは10歳にして第6代男爵となる。とはいえ、この頃までに男爵家は落ちぶれており、ニューステッド・アビーは荒れ放題。なんとか母子の生活費や男爵自身の学費は賄うことができたが、貴族としてはギリギリの生活となった。 それでもパブリック・スクールの名門ハロウ校からケンブリッジ大学に進み、バイロンはやがて詩作に没頭するようになる。そして1809年にはヨーロッパ大陸の旅へと出かける。当時はナポレオン戦争(1800~15年)のさなかにあり、バイロンの旅は主に地中海とギリシャ、トルコなどに限られた。そのさなかに母が突然病死した。翌12年に旅からのインスピレーションをもとに刊行したのが、『チャイルド・ハロルドの巡礼』。冒頭に記したとおり、これで一躍彼は一流詩人の仲間入りを果たすのである。 この頃のバイロン男爵を描写した記録が残っている。「彼はハンサムで快活で、会話も楽しい。あらゆる話題についていける。男たちは彼に嫉妬し、女たちはお互いに嫉妬する」。この言葉を残したのは、当時のロンドン社交界の華のひとりだった、あの第5代デヴォンシャ公爵の夫人ジョージアナである。彼女と親密になったバイロンは、彼女を通してホイッグ系の政治家たちと親交をもった。バイロンは貴族院議員として議会で3度演説にも立っている。政治改革とカトリック教徒(当時まだ政治的に差別されていた)の差別撤廃を訴える、改革派としての立場からの発言だったようである。