小2で交通事故に遭い、意識不明になった少女。命は助かるも…医師「後遺症が出るかもしれない」いつ死んでも後悔したくない、と選んだ道とは
転職先で出会ったPRという仕事
しかし、営業未経験での転職活動はなかなかうまくいきません。 唯一合格をもらえたのは、寝具メーカーの会社でした。 「普通面接って、採用を決める側と決められる側というポジションになりますよね。でもエアウィーヴの社長は違いました。“一緒に日本一になろう!”と情熱をもってプレゼンテーションしてくれたのです。生きる目標を失いかけていた私にとって、社長の言葉は“人生の目標が降ってきた”と思えましたね」 そんな情熱に打たれ入社するも、今までやったことのない営業職に、笹木さんは想像以上に苦戦します。なぜなら、緊張で体が動かないのです。 「社長に“椅子におしりがくっついている”と言われるほど最初の1年間は動けませんでした。怖かったんです」 その後、会社には外部コンサルが入り、広報・PRなどを徹底的に習得していきました。 あるとき、店頭販売していた笹木さんは、競合である他社のブランドが「雑誌で見た」という理由でするすると売れていくのを目の当たりにします。多くのメディア掲載に裏付けされたブランド力の差を実感した笹木さんは「これか!」と確信し、PRに力を入れます。一流アスリートであるオリンピック選手をモデルにしたのも功を奏した理由のひとつ。“宣伝感”が出ないような演出を絶妙なさじ加減でコントロールしたのです。 結果、その会社は急成長しました。
PRの力を信じて突き進むと、そこには新しい世界が待っていた
その後、出産と1年間の育休を経てカムバックするも、会社に居場所がなくなったと感じた笹木さんは、転職を考えます。 「エキサイティングなPRのスキルを活用してもっと企業を支援したい!」その思いをもって鍋製造の会社へPR・マーケティング職で転職。 前職で実績を積んだ笹木さんは、そのノウハウをもってPRした商品は12ヶ月待ちの人気商品となります。ただ、その裏ですべて職人が手作りしていた鍋は製造が追いつかないという状況に陥り、皮肉なことにこれ以上のPRが不要となってしまったのです。 “もっと挑戦したい、大好きなPRの仕事で!” そう考えた笹木さんはブログやSNSで認知を広げ、1時間3000円という価格でコンサル業をスタート。そのときの心境を「1年間は修行と思ってやりました。そのときの経験が私を鍛えてくれたし、口コミも私の背中を押してくれました」と振り返ります。 そして2016年、ついに個人事業主になりPRプロデューサーとして始動するのです。 認知が広がりお客さまが増えてくると、事業拡大のために会社を設立し社員を増やしていくことになります。 途中、社員との気持ちにズレが生じ、9割の社員が辞めていくというピンチを経験しますが、経営者としての学びや組織づくりなど環境を整えることで、人は定着するようになっていきました。頼れる社員が増えていくことで、事業は拡大していきます。 そして、チームの力で大きなことを成し遂げ、社会へ貢献したいという思いが強くなった笹木さんは、2019年社名変更を行い株式会社LITAへ。 LITAとは利他を意味しています。PRという仕事は、自分の利益よりも時とや企業・世の中を思いやる心が大切だという思いを託した社名です。 実際、LITAには上場企業を含む1600社以上の顧問実績があり、PR塾を中心として、8000人以上のキャリア支援を行い、たくさんのPRプロデューサーを輩出。こうしてPRという名の利他の精神は脈々と受け継がれています。 LITAの代表、笹木郁乃さん。その生き方を紐解いてみると、幼少期のケガを機に命のリミットを知り、そこから「命ある限り誰かの役に立ちたい」と願った、泥臭く、一途な姿勢が今に繋がっていることを知ります。日本一のPR会社を目指し、笹木さんは今も挑戦を続けています。 SmaSurf クイック検索
miho