79年目の慰霊 東京・高尾山麓のトンネル列車銃撃
【汐留鉄道倶楽部】JR中央線の高尾駅(八王子市)は、東京の都心から武蔵野を走り抜ける中央線電車(旧国電)の終着駅だ。線路はそのまま西へ続き、ここから先は特急「あずさ」など中距離列車にバトンタッチ、中央本線として山間に分け入って沿線の風景はがらっと変化する。 【写真】中国メーカー製〝訳あり商品〟の地下鉄に乗車 トラブルが相次ぐ「問題児」の乗り心地は… いすはまるで、公園に急いでこしらえた安上がりなベンチのよう
わが家の墓は高尾駅近くにあり、子どもの頃、お彼岸などの墓参りの際は、ここから西方向に出かけてちょっとした遠足気分を味わうのが楽しみだった。いまや訪日外国人にも大人気の高尾山は、1967年の京王高尾線開通で高尾山口駅が開業するまでは、この高尾駅がもっぱら観光の表玄関だった。 そんな、自分にとっては訪れるだけでわくわく感が湧いてくる高尾駅だが、かつて浅川駅と呼ばれていた昔、この駅を発車して西に向かった列車が大きな惨劇に見舞われた歴史があることを学んだのは、最近のことだ。 1945(昭和20)年8月5日(太平洋戦争が終結する10日前)、米軍による八王子市街地への大規模な空襲で不通になっていた中央線が、3日ぶりに開通した。午前10時半ごろ、電気機関車のけん引する8両編成の419普通列車が始発駅の新宿を出発、一路西を目指す。車内には山梨、長野方面の自宅や疎開先へ向かう一般の乗客や兵士が大勢乗り込み、立川、八王子を過ぎて正午前に浅川駅へ着いたときには満員だったという。
12時15分ごろ、419列車は浅川駅を発車した。直前に空襲警報が鳴ったが、発車の判断をした。走り出した列車は南浅川と旧甲州街道に沿って緩やかな上り勾配をゆっくり走り、数分後には浅川駅からは2キロ余り、最初のトンネル、「湯の花(いのはな)トンネル」(全長180メートル)を通過するはずだった。惨劇はここで起きた。 走る列車めがけて米軍の戦闘機P-51(通称ムスタング)が降下して襲来、銃撃を始めたのだ。列車は先頭の機関車と客車2両の途中までが湯の花トンネルに入ったところでストップしてしまう。すると、トンネルの外に止まった残りの客車が標的となり、機銃掃射が繰り返された。 執拗(しつよう)な攻撃により約40人がほぼ即死状態となった。騒ぎに気付いた沿線に住むたくさんの人々が救援にかけつけ、足場の悪い現場から多数のけが人を運び出し、さらに各地の病院に移送した。当時すでに東京・多摩地区も空襲被害などによって医療体制は逼迫(ひっぱく)しており、今回調べて知ったことだが、20キロ以上も離れた、私が通った中学校の隣にある保養院(現桜ケ丘記念病院)にまで重傷者が運び込まれていた。最終的にこの銃撃による死者は52人、けが人は133人との記録が残る。