79年目の慰霊 東京・高尾山麓のトンネル列車銃撃
現在、現場近くの線路脇には、死亡して名前が判明した44人の名を刻んだ「慰霊の碑」が建てられ、毎年この8月5日に、慰霊の集いが開かれている。惨劇の記憶を風化させまいと1984年に「いのはなトンネル列車遭難者慰霊の会」が立ち上がり、コロナ禍で行事は一時控えたが、今年も猛暑の中、静かに慰霊の集いが開かれた。集いといっても、来訪者は慰霊碑に花を手向け、それぞれで手を合わせるという静かで厳かなものだ。それでも入れ替わり100人近く集まったろうか。 現場付近を少し歩いてみたが、いま目立つのは中央道と圏央道が交差する巨大な八王子ジャンクションだ。湯の花トンネルがうがつ小さな尾根に覆いかぶさるように建設され、行き交う車の音が谷間に響く。線路は当時単線だったが、現在は上下複線となり、銃撃現場は上り線として使われているトンネルの高尾駅側の入り口付近だ。慰霊で訪れる人々は、トンネルが見える小さな踏切まで行き来して手を合わせていた。
列車に乗客として姉と一緒に乗っていたという90代の女性は、銃撃された際、とっさに2人とも車内の床に伏せたものの、姉は二度と起き上がらなかったという話を静かに語った。つらい思い出だ。 犠牲者の多くは現場の地元とは直接の関係はないわけで、地元の人が中心になった慰霊の集いを続けていくのは大変だろうと思う。それでも、続けていきたい、いかねばという思いが参列者の表情、言葉に満ちていた。 この一般人を無差別に狙った列車銃撃が世間でもあまり知られていないのは、同じような空襲による犠牲がこの時期各地で多数起きていたからなのではないだろうか。でも知れば知るほど、終戦の決断がもう少し早ければ、大切な命を少しでも救えたのに、との思いが残る。翌日の6日には広島、9日には長崎へ原爆が投下され、終戦を迎えたのは15日だった。 慰霊の集いの帰り道、高尾駅の1、2番線ホーム中ほどの支柱に今も残る機銃掃射の銃弾痕を確かめた。419列車銃撃より3カ月前の米軍機銃撃によるものだという。支柱には銃撃痕の場所を示す看板が掲示されており、すぐに分かったが、看板はいつ掲示されたのだろう。これまで幾度も利用してきたホームなのに気付かなかった。
☆共同通信・篠原啓一