追悼。コービー・ブライアント氏は、あの日、アキレス腱を断裂した足でフリースローを決めた……「バスケは僕の人生」
米プロバスケットボールNBAレイカーズ一筋で20年のキャリアを送ったコービー・ブライアントが26日(日本時間27日)、米ロサンゼルス近郊で搭乗していたヘリコプターの墜落により死亡した。 ブライアントはレイカーズを5度リーグ制覇に導き、NBA歴代4位の自己通算3万3643得点を記録。2007-08シーズンにはリーグの最優秀選手(以降MVP)に輝き、2009年と2010年にはNBAファイナルMVPを獲得。NBAオールスターには18度選出されて4度MVPに選ばれている。 経歴を見るだけでもブライアントがスーパースターとしてどれほどの活躍をしてきたかがわかるが、ブライアントがコートで人々に印象付けてきたものは、見事なまでのフットワークやスキル、得点能力、そして守備力だけではなく、誰よりも強い勝利への執着心と強靭な精神力だ。 これまで多くのプロアスリートを取材してきたが、こんなにも多くの人から嫌われ、最後には愛を一身に受けて引退した選手は見たことがない。 ブライアントは1996年、高卒でNBA入り。運動能力に満ち溢れ、将来性豊かな若手とレイカーズファンから大きな期待を受けていた。しかしその反面、あまりにも攻撃的なプレーぶりに「セルフィッシュ」「一人でプレーしている」「ボールをシェアしない(回さない)」などと、批判を受けるようになった。 4年目の1999-2000シーズンからブライアントとシャキール・オニールの2枚看板でレイカーズは3連覇を成し遂げた。3年連続王者に輝くまでには、チームとしてさまざまな壁を残り超えたレイカーズだったが、ブライアントとチームメイト、特にオニールとの不仲説は消えては浮上の繰り返し。 その際には、脇役としてチームを支えていたベテランのアドバイスにもブライアントが耳を傾けず孤立しているとの噂も流れていた。もちろんのこと、ブライアントは人気選手であり、スーパースターだった。しかしその反面、ブライアントの協調性の欠如を指摘する声が聞かれたのも確かで、“アンチ・コービー”も多くいた。 2004年のNBAファイナルを最後にレイカーズがチームの再建をはじめオニールらを放出、ブライアントは新たなレイカーズのリーダーとなった。その1年目、ブライアントは1試合平均27.6得点し、2年目の2005-06シーズンには同35.4得点、2006-07シーズンには31. 6得点と孤軍奮闘した。しかしレイカーズはプレーオフに進出するのがやっとで1回戦突破も出来ず。そんな中、ブライアントはいかにチームメイトを信じ、頼りにしてプレーするかを学んでいった。