追悼。コービー・ブライアント氏は、あの日、アキレス腱を断裂した足でフリースローを決めた……「バスケは僕の人生」
高校を卒業と同時にNBA入りを決断したブライアントは、ある時、ロサンゼルスの名門UCLAのキャンパスを歩いていた時のことを振り返り、こう言った。 「もしもあの時プロにならずに大学に行っていたら、どんな大学生活を送っていたのかなと思う」 大学時代というのは青春を謳歌できる時でもある。しかしブライアントはそんな“良き時代”を送ることを犠牲にし、史上最年少でNBA入り。18歳にしては珍しいほどに自信に満ちた態度とチームメイトを尊重しないプレーぶりで叩かれることもあった。 それでも「バスケットボールは僕の人生」と決して後悔することはなく、20年間毎シーズンのように成長してコートに戻ってきた。 大学に行かなくとも勉強熱心で、少年時代に住んでいたことのあるイタリア語に加え、妻がメキシコにルーツがあることからスペイン語を勉強。現役時はスペイン語を話すメディアとはスペイン語でやり取りしていた。 また先月マーベリックスがレイカーズと試合をした時に観戦に訪れたブライアントは、マーベリックスのスター選手でスロベニア人のルカ・ドンチッチにスロベニア語で話しかけたという。 ドンチッチはブライアントと交流した試合後、「誰が僕にスロベニア語でしゃべりかけているんだろう?と振り向いたらコービーだった」と話している。 同試合を観戦するにあたって、ドンチッチに話しかける最低限の言葉だけを勉強したのかも知れない。しかし自らがやると決めたことは徹底的にやる。そういうブライアントの一面が見えたエピソードだった。
ブライアントがNBAデビューをする前、サマーリーグのデビュー戦でインタビューをした。まだ取材されることを新鮮に感じている高校生という感じで、始終満面の笑顔だった。 キャリア途中で笑顔が消えた時もあった。怒る顔も何度も見た。悲しそうな表情も見た。しかしそんな壁も自らが選手として、特に精神的に成長することで乗り越え笑顔に戻った。20年のキャリアに終止符を打った引退試合では60得点を挙げた。そしてルーキー時のサマーリーグで見せた時と同じ満面の笑顔でコートを去った。 ブライアントの死を受けて、多くの人々が悲しみに暮れている。引退後、NBA選手、WNBA(女子米プロバスケットボール)選手から少年少女までバスケットの発展に力を入れていたブライアントには、まだまだ多くの選手やバスケットの組織に影響を与えて欲しかったし、ブライアントと一緒に他界した次女のジアナちゃんの将来も楽しみだった。 コービー・ブライアントを失った穴は、永遠に埋まることはない。それほど大きな存在だった。 (文責・山脇明子/米国在住スポーツライター)