追悼。コービー・ブライアント氏は、あの日、アキレス腱を断裂した足でフリースローを決めた……「バスケは僕の人生」
そして2007-08シーズン途中から名センターのパウ・ガソルを獲得、ブライアントとガソルの2枚看板を揃えたレイカーズは以降3年連続NBAファイナル進出、2009年と2010年に王者に輝いた。オニールらと最後に優勝してから7年目。30歳になったブライアントは精神的にも大人になっていた。以前は午前4時から練習する自らと同じレベルをチームメイトに求めていた。 しかしこの時はチームメイトを励まし、教え、引き上げることを重んじた。ブライアントとともにプレーしたレイカーズ時代に選手としてより成熟したラマー・オドムは、「彼はコート上でもコート外でも人生で大切なことをたくさん教えてくれた」と話す。 引退後は“ストーリー・テラー”として、多くの選手を激励してきたブライアント。一つ言えることは、ひたすら突っ走って反感をかったキャリア前半も、見事なチームリーダーとなったキャリア後半も、すべて勝ちたいからこその姿だった。 ブライアントの死を聞いた時に「まさか、あのコービーが」と思った人は多くいるだろう。なぜなら彼には何事にも怖気づかない強さがあったからだ。 ポストシーズンを戦っている時、厳しい立場や緊迫した状況になればなるほど「これから楽しくなる」と目を輝かせていた。 チームが劣勢になってもブライアントが終盤にとんでもないプレーを続出して勝利に導く姿をNBAファンは何度も見てきた。2013年4月の試合終盤に左足アキレス腱を断裂した時には、断裂をした際に得たファウルで自らフリースローラインまで歩き、フリースローを2本決め、自らで歩いて戻った。アキレス腱が切れた足で、だ。 しかも、すでに5度の優勝リングを得、34歳だったにもかかわらず、同故障後すぐに復帰を決断。復帰まで1年近く、またはそれ以上を要する重大な故障にもめげない精神力の強さに感服させられた。 「とにかく強い人」、それがブライアントだった。だから彼がこんなに早く死を迎えるとは誰も思っていなかった。