トルコ・シリア大地震被災者キャンプで会った国際政治に翻弄される子どもたち
サラリーマンを卒業してから、国際人道支援NGOピースウィンズの「見習い」を始めた。ウクライナ戦争とトルコ・シリア大地震の支援チームの一員として、去年はウクライナとモルドバの支援現場を見る機会があった。今年は大地震から1年9カ月になるシリア国境に近いトルコの支援現場を見せてもらった。 ピースウィンズは、大地震で被災したトルコ人への支援に加えて、紛争を逃れて暮らしていたトルコで地震にあったシリア難民への支援活動も行っている。紛争と災害という二重の苦難に見舞われた人々の実相を知り得た範囲で伝えたい。
同じ没年月日の墓標がつづく共同墓地
共同墓地には見たことのない光景が広がっていた。延々と立ち並ぶ墓標には同じ没年月日が刻まれている。2023年2月6日。そこは、トルコとシリアの国境地帯を襲ったマグニチュード7.8のトルコ史上最大規模の地震で命を落とした人々の共同墓地だった。 5万人が犠牲になる地震とはどういうことなのか、規模が大きすぎて理解できていなかったが、このとき初めて実感として受け止めることができた。生後半年の双子の墓標にはおもちゃが供えられ、少女たちの墓標にはブラウスやスカーフがかけてあった。よく見ると誕生日が1月1日と記されているものが数多くある。亡くなった人を知る者が生存しておらず正確な誕生日がわからなかったのかもしれない。墓標がなく、数字が書かれた木の札が立ててあるだけの墓も少なからずある。まだ身元が判明しない人の墓だという。 この共同墓地があるのは、シリア国境に近いアンタキア市。大地震の被害が最も大きかったハタイ県の県庁所在地で、地震前はビルが立ち並ぶ大きな街だった。元は紀元前300年ごろに古代アンティオキアとして建設され、ローマ帝国最大の都市のひとつとなった歴史ある街だ。中心部の背後に聳える山にある洞窟教会は世界最古のキリスト教会とされ、「クリスチャン」という呼称はアンティオキアの人々に初めて与えられたとされる。初代ローマ法王となるペテロがこの町の最初の司教になった。 歴史的建造物の多さがこの街の復興の足枷となっている。日本で言えば熊本城の復旧と同じように、アンタキアでも、どの石をどこに戻すのか、考古学者の確認を受けなければならないために、作業は進んでいない。そのため、今にも崩れそうな危険な状態の建物があちらこちらに残っている。