那覇の9割が焼失「10・10空襲」から72年 「元軍国少女」が語る当時
お祭りだけではない10月10日
戦後、島袋さんは好きだった英語を再度学び、タイピストとして資料の英訳、和訳の仕事に就いた。戦後の苦労について聞くと、「戦争からすれば、戦後なんか辛いことよりもこれからの我々はどう生きなければならないかということで、前向きでしたね」と回答。
女学校の同窓生らとは今でも交友を続けているが、ひょんなことから戦争の傷の根深さを知ることがある。 「最近、友達の孫が新聞記者になって、戦争体験者を取材させてください、っていうんで同窓会のメンバーを紹介したら、(そのメンバーが)両親とも犠牲になっていたって。こんな苦しい話(これまで)全然なさらなくてね。『黙っていたの?』って。初めて分かったんですよ」 その上で、「家族の犠牲者がなくてこういう(戦争の)話をするのもおこがましいんですが…」とも語った。 毎年10月10日近辺は、ギネス認定も受けた巨大綱引きイベントを中心とした「那覇祭り」が開催される。「今の世代は10月10日といえばお祭りという印象でしょうけど、空襲の歴史についても知ってもらいたい」と話した。
「10・10空襲」とは
太平洋戦争が始まって3年近く経った1944年秋、それまで平穏な日々が続いていた沖縄に一気に戦火が広がった。近海に近づいた米軍の機動部隊から飛び立った艦載機が沖縄に襲いかかったのだ。この空襲は10月10日に行われたことから「10・10(じゅうじゅう)空襲」と呼ばれている。 1944年7月、マリアナ諸島を攻略した米軍は、次の目標をフィリピン奪還と定め、そのための制海制空権を確保しようと台湾から南西諸島にかけての日本軍基地を一斉に攻撃した。その中、10月10日には、沖縄本島に1日で延べ1400機もの艦載機が数次に渡る攻撃を加えた。最初は、飛行場など軍事施設を標的に爆弾を投下したり、機銃掃射を加えたりした。その後市街地を無差別に攻撃し、那覇市域の9割が焦土と化した。 この空襲での死傷者は600人に上った。「10・10空襲」以後も、那覇には何度も空襲が行われた。そして、1945年3月英軍も加わった連合軍は、50万人もの勢力で沖縄に侵攻、苛烈な沖縄戦が始まった。3カ月におよんだ陸海の激戦で死者は20万人を超し、沖縄県民の4人に1人が命を落とした。
撮影:山本宏樹/deltaphoto