那覇の9割が焼失「10・10空襲」から72年 「元軍国少女」が語る当時
空襲の日
1944年、3年生になると、作業に動員される頻度がさらに増した。10月10日も、島袋さんは本来ならば旧日本海軍の小禄(おろく)飛行場(現在の那覇空港)での作業に割り当てられていたという。しかし、前日に製菓工場での作業中に火傷を負ったため、自宅で休養していた。飛行場など軍事拠点は、米軍から特に激しい攻撃対象とされた。島袋さんは、後に沖縄戦の地上戦に従軍しなかったことと、10・10空襲の日に飛行場での作業に偶然行かなかったことを「命の分かれ目」と振り返る。
空襲は朝から始まった。しかし、島袋さんは初めは「敵が来たから抵抗したのかな。もしくは演習かな、くらいにしか思わなかった」という。 理由は2つ。1つ目はそれまでに那覇が大きな戦争被害を受けてこなく、実感が沸かなかったこと。2つ目は空襲警報が鳴らなかったためだという。 「空襲警報発令なんて聞いていません。それがあると我々は演習の練習をしていますから。自分たちも準備が分かったと思うんですよ。それはなかった。ですからもう自己判断で動きましたね」 島袋さん一家は自宅に隣接する空き地に掘ってあった壕に逃げ込んだ。空襲は、最初こそ軍事施設が中心的に狙われたが、その後は那覇の中心市街地が満遍なく対象となった。 「我々の目の前で住宅が、あのころの住宅ってみんな木造なんです。将棋倒しです。ぱーーっとね」「だんだん時間が経つにしたがって、入り口にいた人が爆風を受けましてね、喚きだしたんですよ。喚いたらもう壕にいられないのよね。そしたら飛び出しちゃったの。一目散に出て行っちゃった」 とめどなく続いた攻撃も、夕方にはぴたっとやんだ。「(午後)5時にはねアメリカ兵は帰っちゃうんですよ。仕事終わり、みたいな感じで」 その晩、一家は「着の身着のまま、空腹のまま」、10キロ以上を歩いて北上。現在の宜野湾市付近で住宅に身を寄せた。
続く脅威、疎開へ
10・10空襲により、那覇の街は9割が焼けたとされている。帰る家を失った一家は、母と兄弟が沖縄本島北部へ疎開することを決断。一方、島袋さんは学校側の招集を受け、那覇市内の女学校の寮に戻った。 「津嘉山、読谷、識名公園…。何カ所も作業に行きました。動員は1日置き。きょうは勉強、明日は作業。何を勉強したのか分からない。歌といえば、私は歌が好きなんだけど、軍歌ばかりしか歌わなかった。いつも朝礼では先生が敬礼しているけど、姿勢はこうしなさいって」