那覇の9割が焼失「10・10空襲」から72年 「元軍国少女」が語る当時
1945年1月下旬、那覇周辺を再び空襲が襲ったという。島袋さんは学校の寮にいた。 「一高女が空襲を受けたんですよ。(近くに)50キロ爆弾かな、落ちたんですよ。そしたら、その爆風で音楽の先生が耳をやられて、『ここじゃ危ない』って。掘ってあった一人(用の)壕、そこに行きなさいって。生き延びました。夜になって今度は握り飯2つ寮からもらって、『今夜のうちに親元に帰りなさい』って」 この体験を受け、島袋の父は二度と学校に返すことを認めなかった。「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」という沖縄の言葉を使い「学問は2番よ」と説明されたという。 第一高等女学校の学生の一部は、その後の沖縄戦に「ひめゆり学徒隊」として従軍。兵士の看護にあたるなどしたが、戦闘に巻き込まれるなどして命を落とした学生も数多くいた。
山に避難、生理止まる
島袋さんは、父とともにしばらく沖縄本島中部・東側の具志川(現在のうるま市)地域に留まっていた。しかし、沖縄戦が始まった3月ごろからは連日のように沖縄本島にも空襲があり、中部地域でも軍用機が空を飛んだ。4月に入ると、本島中部・西側の読谷村に米軍が上陸し、地上戦も始まった。 「山原(やんばる)に行こうや、お父さん」 山原とは沖縄本島北部を指し、空襲や沖縄戦の直接的な被害を比較的受けなかった地域だ。2人は東海岸を歩いて北上。母や兄弟が疎開していた山の中に合流した。ここでの生活は数カ月に及んだ。
「あのころって言うのは日にちすら分からなくなってくるんですよ。時間の経過っていうのがね。毎日毎日怯えていますんでね。何日っていうのが全然記憶にないんですよ」 山にはハブもいたし、イノシシもいた。しかし、何よりも恐れていたのがアメリカ兵。「アメリカ人が強姦するのが怖いって(言われて)。アメリカが来るよって言ったら、みんな逃げていました。もうハブも、イノシシも怖くない。アメリカ人が怖かった」 島袋さんは、この頃から1年ほど生理が止まってしまったという。「生理的なものでしょうね。完全に止まっていました。私が思うに、栄養失調とも関係ないかな。それから精神的なもの。苦しいのはあの山の時代ですね」 食料が底をついたとき、一家は「捕虜になってもいいから」と山を降りる決心をした。空き家になっていた一軒家に避難していたところ、米軍のトラックが訪れ、初めに父が、その1~2日後に他の家族が収容所に連れて行かれた。