那覇の9割が焼失「10・10空襲」から72年 「元軍国少女」が語る当時
1944年10月10日、沖縄・那覇の市街地の大部分を焼く空襲が米軍によって行われた。「10・10(じゅうじゅう)空襲」とも呼ばれるこの空襲。住民の4人に1人が命を落としたとされる45年3~6月の沖縄戦の影に隠れ、全国的には知られる機会が少ないが、それまで直接的な戦争被害をあまり受けていなかった沖縄県民にとっては「初めて戦禍を身近に感じたとき」「沖縄戦に続く惨劇の始まり」などとして語り継がれている。 「10・10空襲」から72年。空襲体験者の話に耳を傾け、あの日何が起きたのかたどる。
女学校入学、平穏な日常
那覇市では毎年10月10日、10・10空襲犠牲者を悼む慰霊祭が開かれる。この慰霊祭が執り行われる若狭海浜公園の近くに、島袋俊子さん(87)は暮らしている。 6人兄弟の長女として育った島袋さんは当時、市中心部に住んでいた。旧日本軍が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が開戦した翌年の1942年、第一高等女学校(通称・一高女)に入学した。 「女学校に入ったのは英語の勉強のため。お父さんのお給料から学校の月謝って高いんですよね。しかも、女は学問せんでもいいって時代ですよ。私ね、なぜか国際的な人間がこれから必要になってくるんじゃないかって。予感じゃないですけど」 入学当初は、部活に励む余裕もあるほど平穏な学生生活だった。島袋さんが選んだのはバレー部。「まだまだ戦勝国って思っていた時代ですよね」 ところが、徐々に生活に変化が。まず、念願だった英語の勉強が禁止された。「“This is a pen”で終わっちゃった」。さらに、2年に上がると、授業の代わりに飛行場や工場での作業に動員される機会が増えていったという。 島袋さんは、当時の自身を「軍国少女だった」と振り返る。 「校長先生、学校の先生の言うことを素直に聞いて。疎開が始まると(先生たちは)『自分の島を誰が守る』って、疎開する人たちのことを国賊扱いするんですよ。そんな風に言われると『お父さん、疎開しませんよ、先生に言われたから』って。家族の疎開を止めたのは私なんですよ。10・10空襲があったときに、もし犠牲が出ていたならば私のせいになったんじゃないかなって思ったんですが」