[懐かしの名車] ホンダNSX(初代):和製スーパーカーが世界に挑戦
NSX開発の源流は、隆盛を極めたトールボーイ「初代シティ」だった
バブル景気のピークとなった1990年に登場したホンダNSXのチーフエンジニア、上原繁氏の名も、そうしてメディアに登場した。1971年にホンダに入社した上原氏は、最初からスポーツカーの開発を夢見ていたわけではなかった。大学で専攻したクルマの操縦安定性の研究を活かし、東京・練馬の実家に近い就職先として、埼玉・和光に研究所のあるホンダを選んだにすぎない。入社後もスポーツカーではなく、当時、北米の安全基準の厳格化によって大きく重くなることが予想されていた、自動車の未来の走りはいかにあるべきか、という研究をしていた。 当時のホンダは、N360やシビック、アコードなどのヒットで、ようやく4輪車メーカーとしてその歩みを始めたばかり。主力であるFF車でさえ、走りの理論は確立されていない。そんな中で、上原氏はFFはもちろん、FRやミッドシップなど、さまざまな駆動方式の走りを研究し、体系立てた理論にしていったのだ。 その成果として彼が最初に商品化を目指したのは、1981年に登場したシティをベースに、後席下にエンジンを押し込んだミッドシップの小型実用車だった。優れた運動性能と高い使い勝手を備えた次世代の大衆車として提案したそれは、商品化の承認こそされなかったものの、試乗した役員たちに強い印象を残した。それが、1985 年にNSXの企画へと発展するのだ。
海外ブランド「アキュラ」のイメージリーダーとしてスポーツカーの開発が進められた
当時のホンダは1986年に北米で高級ブランド・アキュラを立ち上げることを目指していた。そのイメージリーダーとしてミッドシップのスポーツカーが現地の営業部門から求められ、それならと上原氏に白羽の矢が立った。ただし、そのオーダーに応えた上原氏の最初の企画は、北米側から一蹴される。ハンドリングにこだわった彼は、CR-Xクラスのコンパクトなボディに4気筒エンジンを積むライトウエイトスポーツを提案したのだ。しかし北米の営業部門はあっさり却下、大排気量の豪快なスポーツカーを求めた。その段階で、彼が目指すべきは最低でもV6・3L級のスポーツカーになった。ただし、はいそうですかと大味なスポーツカーに走らないのがホンダマン。本田宗一郎氏はすでに引退していたが、独創性にこだわるホンダの社風は、彼の中に根づいていたのだ。