世界の刑務所人口の25パーセントを収監――200万人以上もの人間を塀の中に押し込める、アメリカの司法制度が抱える闇とは【〈ノンフィクション新刊〉よろず帳】
〈ノンフィクション新刊〉よろず帳#5
ノンフィクション本の新刊をフックに、書評のような顔をして、そうでもないコラムを藤野眞功が綴る〈ノンフィクション新刊〉よろず帳。今回は、元判事のジェド・S・レイコフによる『なぜ、無実の人が罪を認め、犯罪者が罰を免れるのか』(中央公論新社)を紹介する。 内容の核心は、タイトルの通り。少なからぬ読者がぼんやりイメージする「どういうわけだか、金持ちとセレブは罰を受けない国」の司法の歪みを、これでもかと抉り出す。もちろん、話はそこにとどまらず……。 【関連書籍】『なぜ、無実の人が罪を認め、犯罪者が罰を免れるのか』
法律と道徳
法律は「正しさ」を担保する、のではない。法律の許す範囲と正しさの範囲が寸分の狂いなく重なるなら、法改正という行為は存在し得ないからである。 もしも法律に間違いがないのなら、人間を奴隷として所有する行為は責められるようなものではなく、両手の親指の先、ふっくら盛り上がった桃色の肉と爪の間にゆっくり、深く、容赦なく裁縫針の先を押し込んでいく拷問も悪くない。違う。そうはならない、というのであれば、つまり我々の眼前にはしばしば「誤った法律」が現れていることになる。 しかし、法律における「誤り」とは何だろう。一瞬でもその点に思いを致せば、「法律と道徳は別物である」と単純に決めつけてしまうことは虚しい。両者の関係はまだらに重なっている程度だが、法律が道徳的な正しさ(を実現することへの欲求や信頼)を背景として一般国民に遵守されている実態を、真向うから否定する専門家は少ないのではないか。
司法は独立しているか
近代民主国家を支える骨格は三権分立と呼ばれるが、国民がその権力を付託する三者は必ずしも対等な権力を有しているわけではない。いわゆる三権のうち、行政権を付託された内閣と、立法権を付託された国会はともに高度な自律性を持つが、司法権を付託されているはずの裁判所には同等の自律性が備わっているとは言い難い面がある。 裁判所そのものはどの省庁にも属していないが、代表的な「司法機関」(法秩序の維持や実践に携わる実力組織)である警察は総務省、検察は法務省といずれも行政機関の傘下に置かれ、司法府の予算も行政府に握られているからだ。これはアメリカも同様で、連邦警察や連邦検察はいずれも司法省の管下にある。 こうした権力の偏在によって生じた司法の機能不全が、ついに行きつくところまで行ってしまったアメリカの状況を詳らかにした1冊が邦訳された。『なぜ、無実の人が罪を認め、犯罪者が罰を免れるのか』(中央公論新社)【1】。著者のジェド・S・レイコフは、ニューヨーク南部地区連邦地方裁判所の元判事である。 本書によれば、ハリウッド映画やドラマの大好物、正義をもたらす舞台装置として描かれる陪審裁判は〈幻想〉に過ぎない。 〈今日のアメリカの刑事司法制度は、建国の父たちが考えていたこと、メディアが描く姿、あるいは平均的なアメリカ人が信じているものとの関連をほとんどとどめていない。建国の父たちにとって、この制度における重要な要素は陪審裁判であった。陪審裁判は、真実を追求するメカニズムとして、また公正さを実現する手段としてだけでなく、専制政治に対する盾としても機能していた(…しかし…)こうした保障に内在するドラマは、映画やテレビ番組では定期的に、裁判官や陪審員の面前の、公開の場で繰り広げられる戦いとして描かれる。しかし、これはすべて幻想だ。実際のところ、アメリカの刑事司法制度は、ほぼ全面的に、密室で交渉され、司法の監督もない司法取引のシステムである〉【2】 日本における司法取引は組織犯罪や経済犯罪、薬物や銃器など特定の犯罪に限られるが、アメリカではすべての犯罪が取引の対象となる。その結果、アメリカでは過去20年間にわたって起訴された連邦刑事事件のうち90%近くが司法取引によって〈解決〉されてしまっているという【3】。