美術家・やんツーが創作する「テクノロジーを駆使した、“役に立たないもの”」、その原点とは
スイッチを入れると猛スピードでダッシュするミニ四駆、のはずなのだが、のろのろとしか走らない。ほんの10㎝動くのにずいぶん時間がかかる。これはテクノロジーを使ったアートで注目を浴びる美術家のやんツーが、ミニ四駆を改造してつくったアート作品だ。 【写真多数】記事内紹介の、美術家・やんツーによる作品を見る きっかけとなったのは、コロナ禍で展覧会の機会が減り、時間ができたので子どもと一緒にショッピングモールに出かけた時のこと。子どもはめまぐるしく走り回るミニ四駆に夢中になっている。クルマは速く走れば走るほどいい、他の人に勝てればなおいい。そんな価値観に疑問符を投げかけたい、と思ったのだそう。 「社会では他者と競争し、優位に立つことがいつも求められる。仕事でも一つひとつステップアップしてキャリアを積み、お金を稼いで家族を養う。ミニ四駆が、そんな資本主義の縮図に見えたんです。僕もそうやって進歩し、成長することが当然だと思っていました。でも、コロナによる経済停滞が色んなことに気づくきっかけになったり、斎藤幸平さんの著書で『脱成長コミュニズム』という言葉に触れたことで、考え方が変化しました。そこで、ミニ四駆を遅くするだけで色んなことが言えそうだと思ったんです」
“当たり前”を揺さぶる、冗長なテクノロジー
素早く走るミニ四駆に使われているテクノロジーは合理主義の象徴でもある。やんツーの『遅いミニ四駆』は、あえてテクノロジーを使って冗長的なものをつくることで、私たちが当たり前だと思っている価値観をゆさぶろうとしている。彼によればそれは、「脱成長のイメージ」なのだという。 『鑑賞から逃れる』という作品でも、テクノロジーが通常期待されるのとは別の方向に使われる。展示室に並ぶ絵画と仏像とディスプレイは、鑑賞者が近づくと絵は裏返しに倒れ、仏像は台座ごと回転し、ディスプレイは移動していって鑑賞できないようになる。 『永続的な一過性』は、ロボットが倉庫の棚にしまわれたアートを移動して展示台に設置し、またそれを元に戻すというインスタレーション。通常人がすることを、人の手を介さずに装置が行う。その様子は、無人の巨大な物流倉庫でロボットが品物をピックアップする様子を思わせる。また富裕層がアートを購入し、フリーポートと呼ばれる非課税の倉庫にしまったまま、転売をして利益を得るビジネスも連想させる。アートとはなにか、誰がなんのためにつくるのかという価値観をゆらがせる。 やんツーはアートを少し外側から見ている。アートに興味をもつようになったのは高校生の頃、地元でグラフィティに目を向けるようになったのがきっかけだった。 「誰がどうやって描いているんだろう、とのめりこんでいきました。その起源は、1970年代のニューヨークで貧しい若者が自分たちの主張や憤りを可視化しようとしたことでした。当初はベトナム戦争で反戦スローガンが多かったのが、次第に記名だけする行為に形骸化していきます。その後、バスキアやキース・ヘリングといったスターたちが登場し『美術』に取り込まれていく」 その後、美大の情報デザイン学科メディア芸術コースに進学する。もともとはグラフィックデザイン学科が第一志望で、メディアアーティストを目指そうという強い意志があったわけでない。大学4年時の卒業制作でようやく本格的にテクノロジーを用いたメディアアート作品制作に取り組むようになりそこで手応えを得たことで本腰を入れるようになった。 方向性を模索する中で、60年代半ばに結成された「E.A.T.」というグループを知る。ベル電話研究所のエンジニア、ビリー・クルーヴァーとアーティストのロバート・ラウシェンバーグらによるグループだ。彼らはアーティストとエンジニアや科学者とのコラボレーションによって、テクノロジーを活用したアートの発展を目指し、アートによって科学の存在意義を見直すことを目指していた。 「テクノロジーは合理主義を象徴するが、合理化の裏に虐げられてきたものがある。当時、E.A.T.で活動していた人たちはそのことに気づいていたのかということがいまは気になっています」 本来アートは役に立たないものだけれど、やんツーの作品は手間をかけてさまざまなテクノロジーを駆使しているにもかかわらず、本当に役に立たないものばかりだ。この価値のなさが、行き過ぎた資本主義に対抗する唯一の手段だと彼は言う。成長や効率を追い求めることから一歩離れ、寄り道しながら歩むこと。それが、行き詰まりを見せているいまという時代に必要とされることなのだ。