力道山生誕100年… 追悼試合で猪木に狙いを定めた星野勘太郎&山本小鉄の「意地」 取材記者が回想
【プロレス蔵出し写真館】今日、12月15日は〝日本プロレス界の父〟力道山の命日だ。 【写真】星野ごと猪木にダイビングボディーアタックを見舞う山本 力道山は今から61年前の1963年(昭和38年)12月8日、赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で暴力団員の男に刺され、1週間後の12月15日に赤坂の山王病院で亡くなった(享年39)。 今年は、24年(大正13年)11月14日(諸説あり)に生を享けた力道山の生誕100年でもあった。 先月14日に次男・百田光雄が力道山が眠る池上本門寺で「力道山生誕100年 感謝の集い」を開き、レスラーでは小橋建太が出席した。 また、9日には妻の田中敬子さんが日比谷の帝国ホテルで「生誕100年記念パーティー」を開催して、福岡ソフトバンクの王貞治会長や、力道山と懇意だった元プロ野球選手の張本勲、江本孟紀、アナウンサーの徳光和夫ら各界の著名人を含む約350人の招待客でにぎわった。レスラーでは小橋、藤波辰爾らが出席。佐々木健介と北斗晶夫妻が乾杯あいさつを行った。 40年近く疎遠だという田中敬子さんと百田光雄だが、かつては追悼試合で仲良く並んで観戦する姿があった。 さて、67年(昭和42年)12月15日、後楽園ホールで行われた「力道山追悼大会」では興味深い試合が行われた。 10人参加のスペシャルバトルロイヤルだ。参加選手はアントニオ猪木、吉村道明、上田馬之助、星野勘太郎、山本小鉄、高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)、長沢日一、ジャック・ブリスコ、ビクター・リベラ、ニック・コザック。 試合が始まると、ベテラン長沢がイキのいい高千穂のドロップキックを浴び、4人に上から乗られて早々と姿を消した。外国人3人は多勢に無勢で、日本組の集中砲火を浴び退場。要領の悪い上田は〝ついでに〟退場させられた。残った5人は〝大御所〟の吉村にターゲットを絞り、ボディースラムにいく吉村を押し潰して押さえ込む。残りの3人は〝談合〟して猪木に襲い掛かった。 1人で奮闘する猪木は高千穂に目の覚めるナックルパンチ一閃。高千穂がダウンすると星野と山本は2人がかりで猪木を攻め立てる。星野が猪木の首を絞め、山本はボディーにキックをぶち込んだ(写真)。 この年の1月に米国に武者修行に出発した星野と山本は、テネシー地区でタッグコンビ「ヤマハブラザーズ」を名乗り活躍。凱旋帰国を果たしたばかりで、チームワークは抜群。乗りに乗っていた。 2人で猪木をロープへ振り、帰ってきた猪木をダブルのボディースラムで投げ捨てる。猪木も反撃して2人を場外に投げ、リングに戻った星野を猪木はボディースラムで持ち上げると、山本は軽やかにコーナー上段にのぼると、振り向きざまダイビングボディーアタックを敢行した。今でこそ珍しくはない技だが、当時としては画期的なもので、テネシー仕込みと称された。 猪木は星野を抱えたまま山本に押さえ込まれカウント3を献上。山本はすぐさま星野を逆片エビ固めで絞り上げてギブアップを奪い、優勝を飾ったのだった。 まだ〝猪木派〟という色のついていなかった星野と山本は〝大物を食ってやろう〟と意欲満々だった。当時、取材した記者は「イキがよくてファイトぶりは小気味がよかった。小さいのによくアメリカでやったよね。ただ、そのころの東スポはジャイアント馬場、猪木一辺倒だったから、注目されることはなかったけどね」と回想する。 ところで、当時の東スポの雑感原稿でこの日の会場の様子が載っている。 「会場入り口では観客のひとりひとりに供養の〝力餅〟が配られ、リングサイドには敬子未亡人、二男・光雄君、忘れ形見の二女・浩美ちゃんら遺族も姿を見せ、観客とともに追悼の20カウントゴングで黙とうを捧げた。この夜、日本テレビでは故力道山追善記念番組として午後8時からのプロレス中継の合間に、故力道山の思い出のファイトシーンを流したが、場内の観客はメインイベント(大木金太郎VSスプートニク・モンロー)そっちのけで、ホール内のテレビの前に駆けつけ、食い入るようにありし日の力道山のファイトを見つめていた(抜粋)」とある。 近年は、力道山の粗暴な性格面ばかりがクローズアップされているようだが、夫人が「これからも続けて(功績を)伝えていかなくてはいけない」と語る存在であることは間違いない。ジャイアント馬場もアントニオ猪木も良しあしはあれど、力道山の影響を多大に受けた。 馬場と猪木がいなければ、日本でのプロレス発展はなかった(敬称略)。
木明勝義