広島で被爆した韓国人男性、「北朝鮮のスパイ」にでっち上げられる 13年間も拘束…数奇な運命たどった今願う名誉回復【朝鮮半島と在日「スパイ」(上)】
ある韓国人男性は、広島への原爆投下で母、弟、妹を失った。1960年代に韓国へ帰国して農業を営んでいたが、「北朝鮮のスパイ」として捕まり、約13年間拘束、投獄された。今年4月、韓国政府の人権侵害調査機関は、軍事政権だった当時の韓国の捜査当局が不法に男性を拘禁し、拷問によって虚偽の自白を強要したとの調査結果をまとめた。そして、政府に謝罪や再審開始を勧告した。 【写真】海底の坑道には、今も183人の遺体が閉じ込められている 「冷たい海水に呑まれながら坑口を目指して必死に走った犠牲者に対して…」 80年たっても政府が調査に後ろ向きな理由は
数奇な運命をたどった男性は今、名誉回復を願う。政府機関の調査が始まった昨夏と、調査結果が出た後の今夏、男性に取材し、日本・韓国・北朝鮮が絡み合う人生をたどった。(共同通信ソウル支局 富樫顕大) ▽「朝鮮の豚」 その男性は、韓国本土から南に約100キロにある済州島出身の金良珍(キムヤンジン)さん(94)。朝鮮半島は1910年から日本の植民地になった。貧しかった多くの島民が、済州島と大阪を結ぶ連絡船「君が代丸」に乗って日本へ渡ったといわれる。金さんは5歳の頃、出稼ぎの父について日本へ行き、大阪などを経て、広島で小学校に通った。 「朝鮮の、山奥で、確かに聞こえる豚の声。ブー、ブー、ブー」。勉強ができない朝鮮半島出身の子どもは、他の子どもたちからこのようにばかにされた。「自分も日本人になったような気持ちで(一緒に)やった。今になると本当に恥ずかしい」と金さんは顔をこわばらせた。 小学5年生の頃から、病気の父に代わって働くため、学校には行かず工場へ通った。「おふくろは工場に一緒に行ったけど、日本語もできない。私1人が家庭を支える感じだった」 ▽原爆手帳、2012年に交付
「弟、妹がいなければ(生きる理由を失って)自殺していた」。その弟、妹は原爆投下の日、小学校に登校したまま行方が分からず、遺体も見つからなかった。母はつぶれた自宅の下敷きになって即死した。自身は首の上に家の梁が落ちてきて動けなかったところを、隣組の組長が救い出してくれたという。 皮膚がただれた人たちが「痛い」と言いながらのろのろ歩いていた様子は、「幽霊のよう」で「地獄図」だった。他人を助ける余裕もないまま公園へ逃げた。 広島と長崎では、朝鮮半島出身者計約4万人が死亡したとの推計があるが、正確な調査はない。植民地期に「日本人」とされたものの、帰国者は日本政府の援護の対象外になった。日本政府は2003年に在外被爆者への手当支給を始め、金さんは2012年に原爆手帳の交付を受けた。 ▽詩人、金時鐘さんらと 原爆投下後、親戚のいる大阪へ移り、1945年8月15日、それまで「現人神」とされた昭和天皇が敗戦を告げるラジオの「玉音放送」を聞いた。「何を言っているかよく分からない。これが神か。こんなものを神として奉って戦争を起こしたか」と衝撃を受けたという。