小林幸子「歌手人生60年〈ニコ動に出るようになったら終わりだ〉と言われても、演歌もボカロ曲も、自分の歌で皆に楽しんでもらえれば本望」
『紅白』連続出場は33回。大ベテランながら、若い世代にも親しまれる小林幸子さん。ですが、ここまでの道のりは決して順風満帆ではありませんでした。心折れずに歌い続けることができた理由は――(構成=丸山あかね) 【写真】デビュー当時、まだあどけなさの残る10歳の小林さん * * * * * * * ◆大喜びした父、大反対した母 8月の初旬に60周年記念コンサートを無事に終え、ホッとしているところです。10歳で歌手になってから、もうそんなに経つのですね。 デビューした1964年は、初めて東京でオリンピックが開催された年でした。歌手生活の間に東京オリンピックが2回も行われたことを考えると、長くやってきたものだなと思います。 コンサートでは、AI技術で10歳の自分の姿と声を再現していただいて《共演》したのですが、リハーサルで号泣してしまいました。彼女が私に聞くんです。「これから私はどうなるの?」って。そこからデビュー当時のことが走馬灯のように蘇ってきて……。10歳の自分と会話をしながら、たくさんの方に応援していただいて今があるのだと痛感し、感謝の思いが溢れました。 振り返れば、苦しいことや悔しいことが数えきれないほどあったのも事実です。当時は、涙がもったいないからとグッとこらえたこともありました。幾度歌手をやめたいと思ったことか。やめなかったのは歌が好きだから。それに尽きます。 小さなころから歌が大好きでした。といって、歌手を夢見ていたわけではありません。若いころ歌手志望だった父が、勝手に9歳の私の名で『歌まね読本』という視聴者参加型の番組に応募したところから、運命の歯車が動き始めたのです。 「東京見物に連れて行ってやる」という父の言葉につられ、新潟から列車で7時間かけて上京して。「わあ、東京タワーだ!」と思ったら、TBSの電波塔でした(笑)。
家でよく歌っていた美空ひばりさんや畠山みどりさんなどの歌まねをして勝ち抜き、わけもわからぬままグランドチャンピオンになったのですが、奇跡が起きたのはそのあと。番組で審査委員長を務めておられた作曲家の古賀政男先生から、弟子入りのお誘いがあったのです。 父は《神様》からスカウトされたと歓喜していましたが、母は「幼い娘を芸能界なんかに入れられない」と大反対。結局のところ、私の意思に委ねられることになりました。 「歌手になりたい?」と聞かれたときに、なんだか変な空気だな、重要な決断を迫られているのかなと子どもながら思ったことを覚えています。でもそれは一瞬のことで、私は深く考えずに「うん、なりたい!」と答えたのです。 母は、そんな私の言葉を聞くとすぐに自分の着物を出してきて、畳み方を覚えなさい、と言いました。「芸能界に入ったら大人も子どもも関係ないのだから、何でも一人でできるようにしておかなくちゃいけないのよ」と。母が寂しさをこらえているのが、ひしひしと伝わってきて……。 ごめんなさい、思い出したら涙が出てきちゃった。歌手になってからも、「まだ反対してる?」と聞くと「反対だね」と言っていましたが、その実、一番応援してくれたのは母でしたね。
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