小林幸子「歌手人生60年〈ニコ動に出るようになったら終わりだ〉と言われても、演歌もボカロ曲も、自分の歌で皆に楽しんでもらえれば本望」
◆歌の神様は私を見捨てた 歌手になると決めてからは一人上京して古賀先生のレッスンを受け、デビュー曲「ウソツキ鴎」はヒットしました。でも、そこから15年間は鳴かず飛ばず。新曲が出るたびに全国の商店街にあるレコード店でキャンペーンをして、レコードを手売りしていたのです。 歌を聴いてくださっていた人たちが立ち去ったあとに、配った歌詞カードが地面に捨てられていて、毎回それを1枚ずつ拾い集めていました。あれは悲しかった。 両親と2人の姉が上京して一緒に暮らすようになったのは、15歳のときでした。私がデビューした年に新潟地震が発生し、復興のため大手スーパーなどが参入してきたので、家業の精肉店を続けることができなくなってしまったのです。 私はお金を稼ぐために、年齢を上にごまかしてナイトクラブやキャバレーで歌うようになります。店長さんから「ジャズ歌える?」と聞かれれば「歌えます!」と即答し、当日までに英語の歌を耳コピで覚えるの。歌えませんなんて言ったら仕事がなくなってしまうので、とにかく必死でした。 一方で、今度こそはと意気込んで出す新曲はいっこうに売れない。そんな時期が続き、歌の神様は私を見捨てたのだと思うようになったのです。
それだけに、25歳のときに発売した28枚目のシングル「おもいで酒」が有線放送で1位になったと聞いたときは、耳を疑いました。おかげさまで大ヒットにつながり、その年の『NHK紅白歌合戦』に初出場。それから数年後には、小林幸子といえば巨大衣装、というくらい派手なステージを届けるようになりました。 あれは、全国のみなさまに喜んでいただきたい一心だったんです。ライバルは、前の年の自分。毎年スタッフと一丸となって準備するので大変でしたが、楽しかったですね。 ところが2012年、事務所のことでマスコミからバッシングを受けてしまい、そこからの3年間は『紅白』にも出ていません。悔しかったけれど、私は鏡の前で「あなたは強いから大丈夫!」って何度も自分に言い聞かせました。歌いたいとはっきりと思っていたし、その気持ちがブレることはなかった。 私にとって、好きなことを続けるために突き当たる壁は、《苦痛》ではなく、今乗り越えるべきものという感覚。そして、その先には必ず希望があると信じていました。
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