「楽市楽座」を推し進めたのは信長ではないのに、なぜ「信長の偉業」として教わるようになったのか?
■信長の約20年前に近江の六角定頼が城下で施行 楽市楽座(らくいちらくざ)といえば、「自由な商売が認められた市」「規制緩和を実現した市」として、織田信長ならではの偉業、さらには、時代の寵児である革新的な信長の一大プロジェクトなどといわれてきた。 信長以前にも楽市楽座を手がけた武将が何人もいるにもかかわらず、これまで主として信長との関連性で語られてきた感があった。それに対し、長澤伸樹(ながさわ・のぶき)氏がはじめ『楽市楽座令の研究』で問題提起を行い、さらに一般向けに『楽市楽座はあったのか』を刊行したことによって、楽市楽座と信長の関係が改めて俎上に載ることになった。 実は、信長よりだいぶ前に楽市楽座を施行していた戦国武将がいたことは以前から知られていた。南近江の戦国大名六角定頼(さだより)が居城観音寺城下の石寺新市において楽市にすることを天文18年(1549)に決めている。 それだけではない。永禄元年(1558)の史料には、伊勢の桑名が「十楽之津」という表現で現れ、さらに、同9年には、駿河の戦国大名今川氏真が富士大宮(静岡県富士宮市)を楽市と定めていたことが知られている。 では、そうした先例があるにもかかわらず、どうして、楽市楽座といえば即信長といわれるようになったのであろうか。 それは、信長が永禄10年、美濃の斎藤龍興を破って美濃を併合し、「天下布武」の印判(いんぱん)を使うとほぼ同時に、加納に対し市場掟を出したからである。戦国大名だった信長が天下人へ駆け上がるきっかけとなった画期的政策とされたことと関係している。 しかも、安土山下町中宛織田信長掟書(天正五年六月付)は13ヵ条におよぶ、いわば楽市楽座令の完成形といってよく、信長による安土城下町の興隆策としての色彩が濃く認められるからである。 しかし、実のところ、この楽市政策は、信長独自の政策というわけではなく、また、信長が全国に推し進めたものでもなかった点はみておく必要がある。 監修・文/小和田哲男 歴史人2024年12月号『特集・織田信長と本能寺の変』より 一部を抜粋・再編集
歴史人編集部