映画『ナミビアの砂漠』山中瑶子監督にロングインタビュー
──カンヌで『The Substance(原題)』という、コンペ出品のフェミニズム・ボディホラーを観たんです。記者会見に参加したら、コラリー・ファルジャ監督が「これは女性の自己嫌悪についての物語」だと話していて。 まだ観ることができていないのですが、あらすじだけ見ると「女性はいつまでも美しくアンチエイジングせねばならぬ」みたいな? ──それもありますし、より広い視野でみると、「もっといいバージョンの自分へ」という、自己啓発を押しつけてくる世の中を風刺してもいると感じました。個人的にそこがなんとなく、『ナミビアの砂漠』と重なったんです。同時代の作品同士だなって。 うんうん、なるほど。 ──一方で『The Substance』では、不満や怒りの矛先が社会や他人ではなく、自分自身に向くさまが描かれていました。日本にも自罰的な傾向の人は少なくないのではないかと思います。その点、カナが悪びれずに他人に感情をぶつけるさまは爽快です。とはいえ自分をまったく責めていないかというと、そうとも言えません。 他者を攻撃すれば自分を傷つけることにもなるので、その意味では自分を責めてないわけじゃないと思います。あと今の話で思ったのは、なんか最近よく「自分の機嫌は自分でとろうね」みたいな言説ってあるじゃないですか。私的には、「ハイ?なんで?」みたいな。もちろん自分要因のことはいいですよ。お腹が痛いとか……、これはちょっと違うか(笑)。でも、たとえば誰かにひどいことを言われ、イライラしたとする。こういう時、“なぜ自分で自分の機嫌をとらなきゃいけないんだ?いや、とらなくていいだろう”って、すごい思うんですよね。それより「あなたのこういう言動で、今すごく嫌な気持ちになった。キー!」みたいに、もっと感情を出していいんじゃないかって。 ──カナは中盤、優しいホンダ(寛一郎)の家を出て、自信家のハヤシ(金子大地)との同棲を始めます。劇中では、ハヤシの文化的に洗練された家庭環境が垣間見えるのも興味深いです。カナとハヤシのカップリングについて、考えていたことは? ハヤシはカナ、あるいはホンダと比べて明らかに特権性を持っている人として考えていました。カナぐらいの年齢の時は、自分よりも年上で、自分の知らない世界を知っている相手に惹かれるところがあると思うのですが、ハヤシに関してはそれが、環境が与えてくれたものであるということ、つまり彼自身で成し得たものではないことが大切でした。生きているフィールドの違いみたいなものが前提にあることは、ハヤシがカナに惹かれる要素でもあると思うし、カナの理解できなさだったりがハヤシの目には魅力として映って離れないのではないかと。カナにとっても同じところがあると思います。