学校のいじめとエアコン問題に通底するもの カギは「五箇条の御誓文」?
エアコンをつける予算は“あった”
エアコンについては、各地域で何年も前から学校への導入が俎上に上がっていた自治体も少なくないようです。しかし、主に予算がないといった理由から停滞していました。昨夏の児童死亡事故が注目されることで国の予算が付き、市債などが発行できるようになり、設置への動きが活発化しています。つまり、予算は“あった”のです。 例えば一つの家庭が収入に不相応な買い物をすれば、家計が破たんし自己破産に陥ります。国の管理下で財政再建に取り組む「財政再生団体」に指定されたことで知られる北海道・夕張市は、長年にわたって不要な「箱モノ」建設など過剰な“買い物”をし、その穴埋めに総務相や知事の許可を得ない「ヤミ起債」(借金)を積み重ね、財政が破たんしました。 しかし、その買い物が地域の持続可能性に資するなら、不相応な買い物にはなりません。快適な環境で学び育った若者が地域に関わることで、回収可能な投資といえるようになります。 こう書いてしまえば当たり前のことなのですが、こういう「当たり前」が各地で議論にならないのは、教育環境について地域ごとのビジョンが不在であり、コミュニケーションに関わる人が議員や一部の職員などに限定されているためです。閉鎖された中にいる大人たちに見識がなければ、気温上昇のデータを踏まえない思い込みや主観の応酬となって議論が成立しません。そして議題はまとまらず、先送りされます。
いじめの温床は学校を取り巻く閉鎖性
多くの識者が指摘するように、「学級」「クラス」というもの自体に閉鎖性があります。閉鎖空間で「みんな仲良く」することを強制される歪みの表出が、いじめだといえます。習熟度別クラスなど個々人の流動性を高めるための手法もありますが、まだ一般的ではありません。そして「学校」「教育委員会」という組織にも閉鎖性があり、大人たちがいじめの調査結果を隠蔽することがいまだに行われています。 隠蔽は、それを行う方が得をするシステムによって発生します。学校教育の現場では、いじめを学校側の不祥事、先生たちのミスとして捉えてしまい、それ故に落ち度を認めたくない、キャリアにマイナス要素を持ち込みたくないと考えます。しかし、この認識に間違っています。 いじめの多くは、学校現場がどんなに努力しても、先生たちにミスがなくても起こり得ます。いじめは世界中の学校で存在しているのです。まして、生命や財産に危害が及ぶいじめは不祥事ではなく、犯罪です。学校で犯罪が起きた際には、学校内の都合ではなく、社会のルールが適応されなければなりません。そうしなければ、学校は社会のルールの外にある「治外法権」の場所ということになってしまいます。 犯罪が起きたことについて、個々の教職員を責めても意味はないのです。まずは犯罪を起こした当事者(児童生徒)が問われなければなりません。 2013年に成立した「いじめ防止対策推進法」によって、早期にいじめが発見されるようになったのは良いことです。ですが、最新の調査で自殺者が増えている事実は、学校を取り巻くシステムそのものに、いまだ問題があることを示していると私は考えます。 学校には3つの力が働いています。文科省、都道府県、そして各市町村です。基本的に学校の運営は各市町村、給与支払いや採用は都道府県、基本的な制度の枠組みや教育内容(学習指導要領)の制定は国という役割分担になっていますが、近年は国から地方、都道府県から各自治体へと権限を移譲する動きが進んでいます。 この移譲は、トップダウン型から、現場である学校と保護者、地域で教育環境を創意工夫できる大きな改革といえます。しかし、現場に考える力、そのためのコミュニケーションがないとビジョンを創ることができません。容易に先例を踏襲するだけの閉鎖的な環境になってしまいます。